九州の小倉・博多で生まれ育ち、非行の末に少年院へ。そして父に命じられた「更生のための南米流浪の旅」を経験した吉永拓哉さん(45)。しかし、26歳の時にギャングとのトラブルで逃げるように日本へ帰国した。

 それでもすっかり南米の生活に慣れてしまった吉永さんは、1年を経ずに再びブラジルへ向かうことになる。

「ブラジル番長」こと吉永拓哉さん

「ギャングと揉めたポルトアレグレやビアモンには怖くて行けませんが、サンパウロなら大丈夫かと思い、三度ブラジルに渡ったのが2004年です。その時も特に仕事のアテもなく行ったのですが、現地へつくと移住した日本人を対象にした『サンパウロ新聞』という日本語新聞が記者を募集していることを知って応募しました。入社試験が作文だったんですが、俺には少年院で何度も問題を起こして反省文を書いた経験がありますからね(笑)。少年院でも南米でも日記を書いていましたし、文章だけはうまかった。それで合格して、中学にもろくに通ってなかったのに新聞記者になりました」

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「移民船から放り出された我が子がアマゾンの濁流に」

 吉永さんが配属されたのは社会部。単身で南米へ飛び込み、言葉がしゃべれなくてもナンパや遊びに勤しんだ吉永さんにとって、取材活動はお手の物だった。

サンパウロ新聞の前で同僚と

「取材対象は、ブラジルの日系人たちの社会で起きていること全般ですね。日本との関わりもよく取材しました。日本の交番システムをブラジルの警察が導入するとかですね。一般の人だと入れない総領事公邸やサンバカーニバルのメイン会場に記者証で入ったりもしました。スラムの子供たちからブラジル移民だったアントニオ猪木さんまで、本当に色々な人にお会いしました」

 記者生活の中で特に思い入れがあるのは、日本からブラジルへ移民した人々の壮絶な開拓の半生を取材した記事だったという。

吉永さんが新人記者だった2004年頃、アマゾンを訪れたアントニオ猪木さんを取材したことも

「1908年から1970年代初頭まで、日本からブラジルへ移民としてやってきた人は25万人くらいいると言われていますが、その生活は本当に壮絶。俺なんか比べるのも申し訳ないぐらいです。移民船から放り出された我が子がアマゾンの濁流に呑み込まれていき、沈んでいく腕をただ見ることしか出来なかった親の話、ジャングルに建てた藁葺きの家にジャガーが赤子を狙って入ってきた話、食べ物がなくてサルを捕まえた話……。どれも実際にあった出来事です」