記者は吉永さんにとって“天職”だったが、2年後のある出来事をきっかけに、再び日本への帰国を余儀なくされることになる。
「サンパウロ新聞のビルは旧奴隷処刑場の跡地という噂で、サンパウロの中でも屈指の治安の悪い地区でした。銃声が聞こえるのは日常茶飯事、近くで銃撃戦が始まってバーに逃げ込んだこともありました。社員の中には、スラムの子供に拳銃を突きつけられて有り金をすべてとられた人もいます。
ただ直接のきっかけは“黒魔術”でした。ある時期に編集部の中で心筋梗塞や脳溢血が相次ぎ、12人くらいの社員のうちの4人がパタパタと死んだんです。その中の1人のブラジル人の奥さんに、『旦那が死んだのはあんたが夜な夜な飲みに連れて行ったからだ』と恨まれ、黒魔術をかけたと言われたんです。『まさか』と思っていたんですが、しばらくすると高熱が出て、それが全然下がらない。そうこうしているうちに俺の隣の机の記者も死んでしまい、次は俺の番なのかと……」
2006年5月、高熱が下がらないまま、吉永さんは仕事も投げ出して帰国を決断。しかし当時の上司はそれを咎めず、「もう少しで一人前の記者になれるから、福岡支局長として仕事をしなさい。名刺があれば君の人生の役に立つ」と声をかけてくれたという。元々サンパウロ新聞は東京に拠点はあったが、福岡にはなかったため吉永さんのためだけに特別に支局が新設されたのだ。
「ブラジル番長」の呼び名は出版活動から
生まれ育った博多で静養し、体調が改善した吉永さんは再び精力的に動き出す。日本各地のブラジル人街を取材し、ブラジルに住む日系人たちに向けて原稿を届け続けた。2009年には、ペルーの軍事施設で拘束されていたアルベルト・フジモリ元ペルー大統領の独占インタビューを行い、世界の注目を集めた。2019年にサンパウロ新聞が廃刊するまで、吉永さんは福岡支局長を務めあげた。
サンパウロ新聞の仕事と並行して、吉永さんは少年院での経験をブログで公開し、2008年には「ぶっちぎり少年院白書」(二見書房)を出版。南米での経験も「ヤンキー記者、南米を行く」(扶桑社)として出版され、2019年には人気テレビ番組「激レアさんを連れてきた。」にも出演した。「ブラジル番長」という愛称も、出版活動の中でついたものだった。