九州の小倉・博多で生まれ育ち、中学生時代から非行の道へ走った吉永拓哉さん(45)。覚醒剤使用、暴行の共犯、暴走行為などで少年院に入り、非行を見かねた父親により、少年院を出るとすぐに南米放浪の旅へ。

 最初にたどり着いたエクアドルで“博多のヤンキー魂”(本人談)を頼りにナンパや遊びに明け暮れたが、日本を出て1年もしないうちに手持ちの現金が底をつく。その時頼ったのは、福島県からエクアドルに移民していた日本人の男性だった。

アナコンダとブラジル番長、という異色の組み合わせ

「移民1世の半沢勝さんという男性と現地で知り合って、彼が経営しているバナナ園で住み込みで働くことになりました。半沢さんはこの時57歳でしたが、中学1年生で両親に連れられてブラジルに移住し、エクアドルに移ってバナナ園を開いていました。エクアドルに移って1年で父親を交通事故で失って、20歳の時に母親と2人で何もないところにバナナと麻の農園を作ったんです。ナンパばかりしていた俺と同い年(笑)。家もあって電気も通っていましたが、これをイチから作ったのかと思うと想像もできませんでした。社会保障があるわけでもなく、死ねば土になるだけの過酷な境遇を生き抜いた力に感銘を受けました」

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「強盗に車から引きずり下ろされて、手足を縛られ…」

 しかもエクアドルの治安は、良いとは到底言えない。吉永さんが最初に生活していた首都キトでも、強盗や殺人は日常茶飯事。住み込むことになったバナナ園の周辺は、町からも離れており警察の目がさらに行き届いてはいなかったようだ

吉永拓哉さん

「半沢さんは、バナナ園から50kmほどの町へ行ってスタッフに払う給料を銀行でおろした帰りに銃撃されたことがあるそうです。幸い銃弾は車のメーターに当たって止まったのですが、少しずれていれば死んでいたでしょう。強盗に車から引きずり下ろされて、手足を縛られて農場の中に捨てられたこともあると言っていました。他の日本人もナタで首に深い傷を負ったり……。今から数年前にも日本人が被害者になってしまった殺人事件も発生しています。みんな普通にピストルを持っているので、ちょっとした揉め事でも命の危険があるんです」

 バナナ園での生活は吉永さんの人生観を一変させるのに十分なものだったが、更生のための“南米放浪の旅”計画は終わらない。1年のエクアドル滞在を終えるとバナナ園を後にした。

1998年頃、21歳の吉永さん。ペルーのクスコ市

「エクアドルのすぐ南にあるペルーで1年ほど暮らしました。仕事は、首都・リマで日本人の観光客を相手に民芸品を売る仕事。ここも親父の知人のつてですね。飲み屋で女の子と遊んでいる最中に警察が入ってきて『ビザを持ってるか』と連行されたことや、アンデスの各地をめぐったのも良い思い出です。スペイン語も多少できるようになってきて、ペルーは本当に楽しかった」