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 そんな過酷な生活をする吉永さんだったが、少年院に入ってから2カ月ほどが経った頃、父親が突然面会に来て突拍子もないことを言い出した。

「『少年院を出たら南米へ行け』といきなり言われたんです。親父も過去にブラジル、アマゾンで生活した経験があったからか、『ジャングルを切り開いて生活の場所をイチから作ってきた移民の人たちの姿を見て人生の勉強をしてこい。向こうに行けば学歴なんて関係ない、そういう人達がお前の大学になる』と言われて、今考えればめちゃくちゃですよね(笑)」

エクアドルのバナナ園で働いたことも

 父親の「南米へ行け」発言は、本気だった。半年間の少年院生活を終えて一度自宅へ戻った吉永さんだったが、1カ月ほどで南米に向かうことになった。

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「不良をやっていたし、ビビっていると思われるのも嫌でね。ただ内心は怖いしめんどくさいから、飛行機が出る少し前に成田空港から弟に電話したら『少年院まで行ったんだから、覚悟を決めろ』なんて言われちゃってね。親父に指示された最初の行き先はエクアドル。親父の知り合いがいたんです。まずはその人を頼れということで、飛行機を乗り継いで24時間くらいかかってエクアドルに着きました」

「絶対に近づくな」と言われた公園で「タクヤは最高だ」

 エクアドルの首都・キトに住む父の知人の家に居候のような状態で、20歳の11月に南米生活は唐突に始まった。高山病で数日間寝込んだ後、街に出た吉永さんを待っていたのは、衝撃の光景だった。

98年・エクアドル時代にバナナの出荷場で働いていた吉永さん

「俺が博多を歩くと、ほとんどの人は関わりたくないので目をそらして道をあけていた。でもエクアドルでは、俺は差別される黄色人種の1人でしかなかった。自分が一体何を誇示していたのかわからなくなって、本当にちっぽけな存在に過ぎないんだなと痛感しました」

 しかし吉永さんは萎縮していたわけではなかった。本人いわく“博多のヤンキー根性”を発揮し、すぐに探検を開始する。エクアドルへ来て1週間が経つ頃には、夜中に家を抜け出しタクシーを止めると、腰を振るジェスチャーを運転手に見せてキャバレーへ。公用語のスペイン語どころか英語も一言も喋れないまま女性と遊ぶことに励んだ。

サンパウロを訪れた時にカーニバルで出会った女性

 エクアドルでは遊びが中心で、語学学校に通いはしたが、不良少年らしい生活を送ったという。

「日本を出る時に父親がそれなりにお金を持たせてくれたんですよね。そのお金で日本ではなかなか経験できないこともしました。住み込ませてもらっていた家の近くに公園があって『絶対に近づくな』と言われていました。でも好奇心が勝ってふらっと行ってみたらたしかに治安が悪い。窃盗や強盗で生活している人もいる。でも話しかけてみたら意外と気さくなんですよ。すぐに仲良くなっちゃって、公園にいた人たちを連れて近くの売春宿へ行って全員分奢ったりしていました。1人1回500円とかでしたけど。『タクヤは最高だ』なんて言われてましたよ(笑)」