『連合赤軍 遺族への手紙』(遠山幸子・江刺昭子 編)インパクト出版会

〈私は美枝子さんのすがるような目と、表情を失った顔を見ながら何の援助もしてあげられなかったばかりか、(略)実に卑怯な暴力をふるい、生命をまで奪い、(略)それを恥知らずにも“革命の為”と実は自己保身の為に合理化した〉

 1972年1月、榛名山の連合赤軍山岳ベースで、同志のリンチで12名が死亡した。遠山美枝子、25歳。極寒のなかで縛られ、食事を与えられず、殴打され、そして凍死した。

「ごく普通の女性が、なぜ〈殲滅戦〉を遂行しようと決意したのか。なぜ山に向かったのか。なぜ死ななければならなかったのか。遠山さんの生きた軌跡を知りたいと思いました」

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 女性史研究者の江刺昭子さんは、前著『私だったかもしれない』で遠山の生涯を、証言を積み重ねて丹念に追った。明治大学で1学年上だった重信房子に比べて目立たないが、仲間を叱咤激励し、献身的に救援に精を出した女性。だが、彼女が遺した言葉は少なく、その真意に疑問が残った。刊行後、遠山の夫高原浩之から渡された大量の手紙が、新たな光明となった。

「高原さんは赤軍派の最高幹部のひとりで、事件当時は獄中にいました。知人の紹介で取材を繰り返すうちに、『遠山美枝子が生きた証を残したい』と仰って、母幸子さんが事件の被告と交わした手紙を筆写した私家版冊子と、手紙原本・コピーを託されたのです」

『連合赤軍 遺族への手紙』はこうして編まれた。事件直後の被告たちの肉声という資料的価値もさることながら、〈なぜ遺族への謝罪がないのか〉と怒りをぶつける母幸子の執念に押されるように、生々しい感情――混乱、虚勢、懺悔が手紙には滲む。冒頭に紹介したのは、青砥幹夫被告(当時)の手紙の一節。美枝子さんをお返しすることはできない、申し訳ありません……悔恨の言葉が綴られている。

 1960年の安保闘争に端を発したディケードは政治の季節だった。学生はデモに参加し、社会に異議申し立てをした。江刺さんも「安保闘争に参加したし、社会に出てからはベ平連にも行きました。高原さんは、革命近しと感じたと言います」と話す。だが、改定安保を阻止できなかった全学連主流派は、セクト(党派)に分裂。ブント(第二次)、革マル、とくにブントから分裂した赤軍派は武装闘争を掲げ先鋭化していく。理論と理想をもって、彼らは闘ったのか。そうではない、と江刺さんは語気を強める。

江刺昭子氏

「マルクスだ、革命だと言っても、結局、人間関係で離合集散し、組織を支配したいという欲望が悲劇を招いた。革マルと中核の内ゲバでは100名以上が亡くなり、山岳ベース事件も連合赤軍内部の赤軍派と永田洋子(ひろこ)をリーダーとする日本共産党革命左派の主導権争いでした。重信さんはすでにパレスチナへ脱出し、高原さん、最高幹部塩見孝也さんも獄中。最古参の創立メンバーとしての強い自負を美枝子さんは持っていたはずです」

 遠山の総括死は、指輪をし、美人とされた彼女への嫉妬が理由とされてきたが、手紙からは、もうひとつの真相が見えてきたという。

「家父長的で男女(夫婦)の役割を明確に分けようとする赤軍派にあって、美枝子さんは、男と対等に闘い、自立して生きようと覚悟を決めた。それが不幸な事件に繋がったと思います」

 最後に、男性優位の閉塞した社会で自分らしく生きようとしたひとりの女性が遺した言葉を引く。

〈現実に女であるならば、その女が体現できる可能な限りをついやす事が人間らしくという事につながるのではないかと思っています〉

とおやまゆきこ/1924年、大阪府生まれ。連合赤軍山岳ベース事件で犠牲となった遠山美枝子さんの母。事件の被告らに手紙を送った。
 

えさしあきこ/1942年、岡山県生まれ。女性史研究者。早稲田大学教育学部卒業。文化出版局を経て、71年よりフリーランス編集者に。著書に『草饐』『樺美智子、安保闘争に斃れた東大生』等多数。