自分の判断で、庶務担当管理官に進言した。
「刑事部長至急電報を打ってください。証拠として重要になるかもしれませんので、『被害者の血液などが医療行為で確保できているものは、科捜研に持ち込んでください』と。ただし、その目的のための採血はしないように、注意書きをお願いします。
もう一点。被害者の着衣やその他の二次被害についても、注意喚起するように広報していただきたい」
「よし、わかった」
と、庶務担当管理官は対応してくれた。速やかに各署に電発され、二次被害については捜査一課長が会見で話すことになった。
わずか29分でサリンを同定できた理由
科警研の研究員も、科捜研に顔を出し始めた。
「服藤さん。サリンの鑑定、ずいぶん早かったね」
毒物の研究で親しかった、主任研究官の瀬戸康雄技官から声をかけられた。先に述べた通り、前年6月の松本サリン事件で使用毒物の特定に手間がかかった経緯から、備えをしていたためだった。
平成2年に警視庁管内で、化学剤のイペリットを使用する事件が発生した。製薬会社の研究所に勤める26歳の男が、交際相手の女子大生がほかの男性とも付き合っていたことに腹を立て、彼女のマンションや実家の門扉の取っ手、郵便受けなどにイペリットを塗りつけ、家族に火傷を負わせたという事件だ。その臭いからマスタードガスとも呼ばれ、国際法で使用が禁じられているイペリットは、この男が自作したもの。日本国内で化学兵器が使われたのは、これが初めてだった。
その鑑定のときにはデジタルのライブラリなどなく、印刷された分析チャートを片手にデータ集とにらめっこだった。鑑定資料からはタマネギの腐ったような臭いがしていたが気にも留めずに扱っていて、イペリットらしいとわかってから大騒ぎになった。慌てて資料を密閉保管し、実験台の隅々までアルカリ除染して、身体も丁寧に洗ったことを今でも覚えている。
ちょうど1年前、私が所属していた科捜研第二化学科では、関連分析機器を更新した。兵器として使用される化学剤を含む多くの物質の分析データがライブラリに入っていて、分析と同時に自動的に検索できるアメリカ製の機器を導入していたのだ。わずか29分でサリンを同定できたのは、そのおかげもあった。