《仲間というのは本名です。私の生まれた沖縄では、東京の佐藤や高橋とおなじくらいよくある名字なんです》
これはいまから28年前、『週刊文春』誌面に初登場したときの仲間由紀恵の発言である(1996年7月11日号)。たしかに当時はまだ沖縄以外ではなじみの薄かった仲間姓だが、その後の彼女の活躍によってすっかり認知されたといっていい。
なお、このとき仲間が『文春』に登場したのは、俳優としてではなく新人歌手としてであった。そのデビューシングル「MOONLIGHT to DAYBREAK」のプロデューサーは当時全盛期にあった小室哲哉の右腕と呼ばれた久保こーじとあって、記事にも「沖縄少女・仲間由紀恵が小室ファミリー入り」の見出しが掲げられていた。仲間はこのあと2000年までにソロで7枚のシングルをリリースしている。のち2006年には、携帯電話のCMのイメージキャラクターとして「仲間由紀恵 with ダウンローズ」なるユニットを結成し、「恋のダウンロード」という曲でスマッシュヒットも飛ばした。
琉球舞踊の先生になりたいと思っていた
きょう10月30日、45歳の誕生日を迎えた仲間は、芸能界にデビューしてからも30年が経とうとしている。デビューのきっかけは中学3年生だった1994年、地元・沖縄で放送された『青い夏』というテレビドラマにオーディションで選ばれて出演したあと、東京の芸能事務所からスカウトされたことだ。中学時代はタレントスクールに通っていたものの、将来は幼稚園のころから習ってきた琉球舞踊の先生になりたいと漠然と思っていた。それだけにスカウトされるまで芸能界に入るなど考えたこともなかった。
事務所からは中学を卒業したら高校は東京でどうかという話だった。すでに中3の秋ごろで急いで決めねばならず、悩みながらも、でも面白そうだなと思い、母親に相談するとあっさり許してくれた。遠洋漁業の漁師である父親はといえば、ちょうど半年ほどマグロ漁船で南洋へ出ていたため、無線で連絡を取ってもらい、東京に行きたいと伝えると、「じゃあ、頑張って行ってこい」と言ってくれたとか。何だか朝ドラにでも出てきそうなエピソードである。ただ、父が漁から家に戻ると、すでに彼女は上京しており、「しまった! まだ中学3年だったのに行かせるのはまずかった」と大騒ぎしたらしい(『JUNON』2002年11月号)。仲間は5人きょうだいの末っ子とあって、やはり心配になったのだろう。