奨励会員から見た編入試験制度
奨励会には全国から天才と呼ばれる子たちが集まる。山川は2級のときに壁にあたり、昇級できずに精神的にも追い込まれた。
「自分一人では、どうにもできなかったと思います。家族の支えがあり、共に切磋琢磨してきた同世代が先へ行って棋士として活躍している姿を見て、自分も頑張らねばと気持ちを保っていました」
三段に昇段したのは19歳のときだった。入会から7年が過ぎていたが、奨励会では「三段になってやっと半分」ともいわれる。正に、山川にとっての正念場は、ここからだった。リーグ戦では勝ち星が伸びず、指し分けか負け越しが数年にわたって続く。
高校卒業後は大学に進学せず、将棋一本で頑張る決意をする。だが、周りが学生生活や就職をしていく中で、何も肩書きのない宙ぶらりんな自分を苦々しく感じることもあった。
この期間に編入試験が3度行われ、折田翔吾(元奨励会三段)と小山怜央の2人が合格した。小山は奨励会を経ずに現行制度で初めてアマチュアから棋士になり、棋界関係者の中にも驚きの声があった。奨励会12年目を迎えていた山川の胸中に、複雑なものはなかったのだろうか?
「自分の対局で精一杯で、気にしている余裕はなかった。編入試験については、将棋界は割と閉鎖的に思える中で、開かれた制度に思えます。不公平とか反対するような気持ちはありませんでした」
失いかけた自信を救ってくれた母の言葉
永瀬拓矢九段の研究会に誘われたのは、23歳のときだった。永瀬の将棋に対する姿勢に触れ、己の努力の足りなさを知った。意識なのか、技術なのか、何かが変わり始めていく。リーグでの勝ち越しが増えていき、リーグ13期目には14戦目を終えて12勝2敗で、初めてトップに立った。次の例会で連勝すれば、最終日を待たずに昇段の可能性がある。しかし、プレッシャーから、よもやの連敗を喫してしまう。このチャンスを逃せば、26歳の年齢制限まで残り2期しかない。
自分は何者にもなれないまま、終わってしまうのか……。
失いかけた自信を救ってくれたのは、母の言葉だった。
「精一杯やって駄目だったら、それはあなたが進む道ではなかったのです。でも、必ず他にあなたが輝ける道があるから、失敗を気にせずにやりなさい」
最終日、「よい将棋を指そう」とだけ思った。千駄ヶ谷駅を出て将棋会館へと向かう。見上げると、雲ひとつない青空が広がっていた。
その日は連勝してトップでの昇段を決めた。最初に連絡をしたのは母だった。
「四段になれました」
そう伝えると、涙が溢れてきて言葉が出ない。電話の向こうの声が、力付けるように言った。
「これから取材とか会見があるのだから、泣いていては駄目ですよ」