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午前中は戦線が膠着状態だったのは、内通している小早川隊が形勢を傍観して動かなかったからだった。焦った家康が「問い鉄砲」を放って下山をうながすと、小早川隊は松尾山を下って大谷隊に突入した。

大谷吉継には小早川の離反は想定どおりで、当初は応戦していたが、松尾山の麓に陣取っていた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保が一斉に離反するにおよんでは、もう防戦しきれず、吉継は自刃。この状況で家康は旗本勢に一挙に進撃させ、西軍の各部隊は次々と崩れていった。

大谷隊の次に崩れたのが小西隊で、次に宇喜多隊が崩れた。この期におよんで、激しく抗戦していた石田隊も潰えた。すでに宇喜多秀家も石田三成も逃走したのちに、最後まで戦っていたのが島津隊だったが、東軍に包囲され、退路を断たれてしまう。

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このため壮絶な退去劇が展開されることになったのだが、その様子を具体的に見る前に、主役である島津義弘について簡単に整理しておきたい。

慎重な兄・義久と勇猛な弟・義弘

義弘は天文4年(1535)、島津家の15代当主、島津貴久の次男として生まれ、父の家督を継いだ兄の義久を補佐した。天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐後、降伏しながらも薩摩(鹿児島県西部)と大隅(鹿児島県東部)が島津家に安堵されると、兄から家督を譲られて17代当主となった。

ただ、その後も兄の義久が政治に関しても軍事に関しても実権を握っており、家督の譲渡は形式的なものだった可能性もある。だが、そのことはのちに功を奏している。

義弘の勇猛ぶりは名高い。秀吉の九州征伐の際も兄の名代として戦場に赴き、みずから刀を抜いて敵陣に斬り込んだともいわれる。朝鮮出兵に際しても、慶長の役における泗川(しせん)の戦いでは、7000の兵で3万を超える敵を討ったと伝えられる。

そして関ヶ原だが、義弘は兵を1000しか率いていなかった。中央権力とは距離を置くのが兄の義久の志向で、このため義弘に十分な兵力を送らなかったのである。西軍への参戦を決意し、すでに伏見城攻めにも参加した義弘は、国許に援軍を求め、390人ほどの兵が新たに上京した。