さらには、西軍の総大将であったとはいえ、戦闘に参加しなかった毛利輝元は、事前に家康側とのあいだで領土保全の約束をしていたにもかかわらず、領土を3分の1以下に削られた。長宗我部元親にいたっては、まったく戦闘に参加しなかったのに改易された。
なぜ島津だけは「逃げるが勝ち」となったのか。そこでは前述のように、兄の義久の存在が功を奏した。義弘は謹慎し、家康側との交渉の前面には義久が立ち、都から遠く離れた薩摩にいて、中央の事情はわからなかったと主張したのである。
一方、義弘の子の忠恒(のちの家久)は鹿児島城を築いて武力衝突に備えるなど、有事の備えにも抜かりがなかった。さすがに家康は放置できず、島津討伐のために3万の軍を薩摩に送ったものの、途中で撤退させている。関ヶ原に主力を送らずに兵力を温存した島津家は、長期戦にも耐えられる状況で、家康は躊躇したと考えられる。
なぜ島津だけが本領を安堵されたのか
もちろん、日本の最南端という地理的状況も、島津家に有利に働いただろう。家康と親しい近衛前久が仲介に当たったことも指摘される。加えて、義弘の人徳を無視することができない。
勇猛で誠実な義弘はその人間性が尊敬され、福島正則も損得抜きで支援を申し出たし、傷を負わされた井伊直政にして、島津家に寛大に対応するように家康に進言している。元和5年(1619)に義弘が死去した際、幕府はすでに殉死を禁じていたにもかかわらず、13人が後を追ったという記録からも、その人徳がうかがい知れる。
とはいえ、島津家の当主に頭を下げさせないかぎり、家康の面目は立たない。そこで義久の上洛をうながしたが、高齢などを理由に応じない。結局、慶長7年(1602)12月、義久の代わりに甥の忠恒が上洛することで決着がつき、島津家の本領は安堵された。
ところで、関ヶ原から逃げ帰った西軍の将には、五大老の宇喜多秀家もいた。秀家は家康側の追跡をかわして薩摩まで逃げ切り、島津家の庇護下に入っていた。だが、家康が忠恒と和睦するにあたって秀家の存在が問題になり、身の安全が守られることを条件に家康側に引き渡された。