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島津がとったすさまじい作戦

さて、関ヶ原で退路を断たれた島津隊だが、ふつうはここで万事休す。だから義弘は自刃を覚悟したが、それを止めたのは甥の島津豊久だった。このとき、義弘を国許まで帰すために採られたのが、玉砕戦法というべき「捨て奸(がまり)」だった。

敵軍のなかを正面突破するしかない場合、ふつうに突進したのでは全滅しかねない。そこで正面突破してから、殿(しんがり)となった小部隊が戦って敵を足止めし、全滅するとまた別の小部隊が全滅するまで戦う、ということを繰り返して時間を稼ぎ、本隊と大将を逃がすのである。さらに、数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃させた。

一面が東軍ばかりのなかに突進した島津隊は、こうして豊久も、義弘の家老の長寿院盛淳も命を落とした。しかし、結果としてこの戦法が成功したのは、島津隊は義弘への忠誠心が強いうえに(そうでなければ「捨て奸」などという戦法はとれない)、射撃の腕前が高かったからだといわれる。

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追撃した家康の四男の松平忠吉は傷を負い、同じく徳川四天王の井伊直政も銃弾を受けて落馬。このため家康は追撃をやめさせ、義弘を中心に80人余りが薩摩まで逃げ帰ることができた。

ちなみに、井伊直政はそのケガが原因で、合戦から2年足らずで死去している。また、慶長12年(1607)に死去した松平忠吉も、このときのケガの影響は小さくなかったといわれる。島津義弘は関ヶ原合戦の最後の最後で、東軍に大きな損傷をあたえたのである。

まさに「逃げるが勝ち」

このように島津義弘にかぎっては、実際、「逃げるが勝ち」であった。なにしろ、領土はそのまま安堵されたのである。

ところが、西軍のほかの将はそうではなかった。小西行長は伊吹山中(滋賀県と岐阜県の県境)で、石田三成は近江の古橋村(滋賀県瑞穂市)で、安国寺恵瓊は京都六条で捕えられ、みな引き回しのうえ処刑された。長塚正家は自刃し、増田長盛は配流になった。