「子どものころは、父の影を見ると、本当にテストのときはビクビクものでした。テストでいい点が取りたいのは、自己評価や先生からの評価を欲するためではなく、単純に父親の竹の棒制裁が怖かったからなのです」
今では更生を果たし、地域住民からの信頼も厚いNPO法人「五仁會」(主な活動内容は暴力団および非行少年の更生支援など)の広報として活躍する西村まこさん。かつて日本初のヤクザとして名を広めた彼女は、どんな家庭環境で育ったのか? スパルタだった当時の様子を、著書『「女ヤクザ」とよばれて ヤクザも恐れた「悪魔の子」の一代記』(清談社Publico)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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「教育パパ」の家に生を受ける
長女である私が生まれたのはビートルズが来日した1966(昭和41)年、東京・世田谷区にあった病院と聞いています。東京に生まれただけで、土地の人間ではありません。これは母方の両親が東京に住んでいたからです。
当時、私の両親は愛知県名古屋市東区の旭丘地区に住んでいましたから、育ったのは名古屋市です。現役時代やいまの私を知っている人からすると信じられないかもしれませんが、私の生家は、とても真面目で、息苦しく、厳格すぎる家庭でした。
父は愛知県庁に勤める公務員で、母親は専業主婦でした。母は私が中学校に上がったころから学校給食の調理員として小学校にパートタイムで出ていました。その後は国民生活金融公庫(現在の日本政策金融公庫)にパートで勤めに出ていたそうです。
幼稚園までは東区内の幼稚園に行きましたが、小学校は愛知県瀬戸市に引っ越したため、陶原小学校に上がりました。この引っ越しは父の仕事の関係で瀬戸にある愛知県職員の官舎に転居したからです。
その瀬戸で父母とひとつ下の弟、四つ下の弟と一緒に狭い官舎で過ごした日々はよく覚えています。私の記憶によると、そこは家というより寺子屋のようなイメージでした。
子どものころを振り返って、いい思い出だったかと問われると、ちょっと返答に困ります。私の家庭をひと言で表現するとしたら「厳格」です。すべては父親の超スパルタ教育が原因です。とにかく何かにつけて厳しい。