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 親戚をたらい回しにされた父の兄弟――育て親が異なる弟(叔父さん)も父と同じように苦学して東京都職員になりました。石原慎太郎都政時代のころです。少年時代、同じ境遇で苦労して生きてきた父と叔父は、とても仲がよく、わが家にも定期的に顔を出していました。叔父さんには子どもがなかったからでしょうか、私たち姉弟をとてもかわいがってくれました。

得意科目「理科」は常に最高評価

 父親のスパルタ方式アレルギーで、勉強がすべて嫌いだったかというと、そうでもありませんでした。とりわけ理科は得意だったと自負しています。

 友だちが「怖ーい。気持ち悪い」といっていやがる魚の解剖。お腹を切開して浮き袋とかを見る実験も興味津々でしたし、塩酸に亜鉛を入れ、水素を発生させる実験でもヤケドをするなんてヘマをした覚えはありません。難解な化学式もまったく苦になりませんでした。ですから、理科に関しては、中学校で真面目にしているころまでは、つねに五段階評価の5をもらっていた記憶があります。

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 ほかの科目では体育が得意でした。1年から6年まで駆けっこの競走ではつねに同学年で1位でした。だから、運動会などではクラスのなかでも頼りにされる存在だったですね。足が速いということは基本的に運動神経全般がいいのですね。体力測定というものがありましたが、ジャンプ力、持続力、瞬発力など、すべていちばんいいランクをキープしていました。いまでも名残がありますが、身体が柔らかかったのです。

 一方、女子なのに、音楽がとても嫌いでした。とにかく何を歌わせても歌がへたくそ。これは友人にも言われましたから、自他ともに認めるところです。小学校低学年のころに親にエレクトーン教室に通わされましたが、3日で辞めました。父親には、えらい剣幕で怒られましたが、頑として行きませんでした。これは持ち前の性格ですね。「いやなものはいや」と思ったら、いまでも絶対に拒絶します。