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 同期の二谷もバイリンガルで、入社後すぐにスター扱いされた側だったけど、俺より10歳近く年上だからね。『浮草の宿』(1957年、鈴木清太郎監督、のちの清順)の主演に二谷が抜擢されたときは、あいつができるなら俺にできないわけがないと思ったよ。

 その点、裕次郎は別格だった。役者にランク付けがあるとしたら彼はAクラス。東映の中村錦之助(後の萬屋錦之介)や東宝の三船敏郎、鶴田浩二と同列で、俺はいいとこAダッシュさ。

 それでも、顔を突き合わせれば楽しく飲んだし、間近で様々なことを学ばせてもらった。いい意味で刺激を受けたし、若い頃は俺も早くああいう人気者になりたいと思ったもんだよ」

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©文藝春秋

スターを売り出すという発想がなかった昭和20年代

 昭和20年代、小林や裕次郎が登場する前の日本の映画会社にはスターを売り出すという発想がなく、日活は文芸路線を売りにしていた。

「『信用ある日活映画』なんて言ってたくらいだからね。その前の時代は活動写真が主流で、長谷川一夫先生や大河内傳次郎さんたちが活躍していた。俺も子供の頃に祭りの季節かなんかになると、四角い箱を載っけたリヤカーの見世物や、掛け小屋の芝居を見に行ったもんだよ。

 映像に音がつくようになって映画館が増えると、そういう文化は衰退してしまった。日活の前身も日本活動写真株式會社といって、終戦直後に社名が変わったんだ」

東洋一の撮影所

 1912年、大正元年に既存の映画4社が合併して創立された日活は、日本でもっとも古い映画会社である。

 創立記念第1回作品は、日本初の映画スターと呼ばれた尾上松之助主演の『忠臣蔵』(1912年、牧野省三監督)。その後も、初のトーキー映画『ふるさと』(1930年、溝口健二監督)や、大河内傳次郎の人気を不動にした『丹下左膳』シリーズ(伊藤大輔監督)などを送り出し、東京の向島、多摩川や京都の大将軍、太秦に大規模な撮影所を建てた。

 戦時企業統合により一時は映画製作を中断したが、終戦後に再開し、1954年に東京・調布市の多摩川べりに東洋一と謳われた日活撮影所を建設した。