1956年にデビューを果たし、2026年でデビュー70周年を迎える小林旭。86歳になっても、「歌う大スター」として輝きを放ち続けている。
そんな小林旭が自身の華麗なる俳優人生を明かした自伝『小林旭回顧録 マイトガイは死なず』(文藝春秋)を上梓。ここでは同書より一部を抜粋し、女優・浅丘ルリ子との恋愛事情を紹介する。(全6回の4回目/1回目から続く)
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浅丘ルリ子との悲恋
映画『絶唱』や『渡り鳥』シリーズなどの共演で、1年中行動を共にしていた小林と浅丘は一時期、私生活でも恋仲にあった。
日活の中興の祖と言われた当時の堀久作社長は「裕次郎には大人の恋をさせろ。小林旭には恋人を作るな」と厳命したが、2人の交際は公然の秘密だった。
浅丘は後に日経新聞の連載をまとめた著書で、小林との“職場恋愛”を次のように振り返っている。
〈1958年。日活で「運命の人」と出会う。
児童劇団の子役から人気スターにまで一気に登り詰めた小林旭さん。私よりも2つ年上。シャープな顔立ちに筋肉質の体。ヤンチャで武骨で危険な香りが漂っている。
一目会ったときから私は恋に落ちていた〉(『私は女優』日本経済新聞出版社)
2人が初めて本格的に共演したのは『美しい庵主さん』(1958年、西河克己監督)。小林は浅丘に「ぶう(本名の信子にちなんだ愛称)のことが好きになっちゃったみたい」と告白し、2作目の『絶唱』では恋人役の演技をする必要がないほど深い仲になっていた。
浅丘がラブシーンを演じると小林は露骨に眉をひそめた
双方のファンの手前、どの映画でもラストに必ず別れが訪れた。一方で、浅丘が裕次郎や赤木圭一郎とラブシーンを演じると、小林は露骨に眉をひそめた。小林との共演作では着ることのない大胆な衣装を着ている浅丘を見つけて、無理やり引き剥がそうとしたこともあったという。
一時は結婚も考えたが、元高級官僚の浅丘の父が許さなかった。小林は「どこの馬の骨か分からんやつに娘はやれない!」と怒鳴られ、2人の間に隙間風が吹いた。
1962年1月に公開された『渡り鳥北へ帰る』(斎藤武市監督)のロケ中に別れ話をした2人は、同作を最後にシリーズのコンビを解消している。
「またいつか、この街に来てくださるわね。お約束してください」
「します……。必ず」
「お待ちしてます、その日まで……いつまでも」