映画『本心』が公開されました。AIで人の「心」は再現できるのか?という問いに迫った平野啓一郎氏の小説に基づきながら、原作にはない要素も新たに付け加えられた映画の監督・脚本を務めた石井裕也氏。雑誌『文學界』に掲載された平野氏と石井氏の対談をお届けします。(全2回の前編/続きを読む)
文・「文學界」編集部
平野 映画『本心』の試写を見て、原作者でありながら、新鮮な驚きを覚えました。単に原作をなぞるのではない、映画的な「再構築」がみごとに成し遂げられていたからです。「やられた!」という箇所もありました。原作と映画は一種、共同的なライバル関係にあるのだと感じさせられました。
石井 そう言って頂けると光栄です。
この映画は、独特な成立過程をたどっています。主演の池松壮亮君が、まだ単行本化されていない新聞連載段階の2020年に原作を読み、「これを絶対映画化すべきだ」と僕に勧めてきたのです。
その背景には、僕が7歳の時に母を亡くし、小説の主人公の朔也と同じように、“母親”の不在に喪失感を感じ続けているのを知っていたことがあると思います。池松君は、これまで僕の映画に9作出てもらっており、監督と俳優という関係を超えて、人生を二人で共有しているような間柄です。
そんな彼からの勧めだけに、慌てて『本心』を読みました。そして不遜な言い方を許してもらえれば、「これは自分の物語だ」と感じたのです。
平野 僕も父親を、1歳の時に亡くしています。その欠落感は、幾つかの作品でモチーフにしてきましたが、『本心』では、母と子という形で変奏されているのかもしれません。
俳優という職業の特殊性
石井 池松君は34歳で、役者として脂の乗り切った時期です。その彼が、なぜ今『本心』をやりたいと思ったのか。その鍵は、この小説の中に通底している「身体性」というテーマにあるような気がします。
俳優という職業の特殊性は、「身体」が人の眼に常にさらされている点にあります。撮影現場にいけば、多くのスタッフに見つめられる。舞台に立てば、大勢の観客の視線を浴びる。さらにスクリーンやモニターの向こう側には、際限のない数の眼が存在します。
しかも、それら無数の視線から、「カッコいい」とか「カッコ悪い」とか常に評価され、人気の有り無しが決まってしまう。その緊張感に常にさらされている俳優の感性には常人には計り知れないものがある、と常々感じているんです。