CGを多用しなかった理由
平野 たしかに映画には2時間前後という、観客にとって快適な時間の制約がありますからね。本来、短編小説からふくらませるぐらいが丁度いいと思います。黒澤明監督が、芥川龍之介の短編「藪の中」「羅生門」から、映画『羅生門』を再構築したようにです。
もっとも今の映画状況の中では、短編が映画になるのはなかなか難しい。それなりに評判になった長編が原作でないと企画が成立しないという事情はわかります。ただその場合、2時間に収めるためにエピソードをどんどん落としてしまうと、単なるダイジェストになってしまう。
石井 おっしゃる通りです。だから、今回、原作から泣く泣く削らせて頂いた部分もありますが、逆に原作にはない要素を足している部分もあります。
平野 ええ。これからご覧になる方のために言及は控えますが、意外な再構築がいくつかありました。
石井 とくに映画は、「絵」で見せるものです。小説なら読者の想像力に委ねられる部分も、ある程度ダイレクトに描いていかなければならない面があります。
平野 『本心』は近未来の話なので、観客は前提となる世界観を知りません。その中でパッと見て状況が理解できるよう、工夫して撮られているのがわかりました。
とりわけ、冒頭の氾濫している川のほとりに、田中裕子さん演じる朔也の母が出ていく場面は、映画ならではの迫力でした。なおかつ、地球温暖化がより進み、豪雨による水害が起こりやすくなっている、という原作の世界観がうまく反映されています。あの部分は、CGを使ったのですか?
石井 あそこは本物の川で撮って、雨や川の濁流をCGで足しています。
平野 ただ全体としては、SF的な設定にもかかわらず、CGが多用されている印象がしませんでした。そこは意図的なのでしょうか?
石井 はい、CGに頼り過ぎると際限がなくなるので、どこまで抑制できるかが演出的なテーマでした。
また、最初に原作を読んでから、撮影に入るまでの3年ぐらいの間に、どんどん時代が追いついてきた感じがしたんです。メタバース(インターネット上の仮想空間)にしろ、どんどん実用化が進んでいて、『本心』の中に出てくるVFやリアル・アバターといった要素も、ことさらにCGを使って強調せずとも、自然に観客に理解されるのではないかと思ったんです。近未来ということをあまり強調せず、むしろ現代に引きつけて「今の話」にするべきだと考えました。
平野 なるほど、その意図は成功していると思います。