歯が痛くても半年以上放置する母
男は安定した職に就いて定年まで働いて、女は結婚して子供を生んで、老後は子供に面倒を見てもらいながら孫を愛でて穏やかに暮らして――。
少し前の時代に理想とされたこの人生パターンを、母はぼんやりと、それでいて唯一の確かな指針として生きてきた節がある。それ以外の何かを追求するような姿は子供の頃から見たことがない。
だからなのか、趣味もとくに持たなかったし、私や姉がどんな暮らしをしているのかもあまり興味を示さなかった。フリーランスの記者を20年近く続けている筆者のことは「不安定な生き方をしているなあ」くらいにしか思っていないと思う。
この受け身な性格がセルフネグレクトに向かわせているのではないか? 筆者は2年前からそう考えていたらしい。2022年2月の日記にこう書いている。
〈母親の介護認定調査(2年ぶり3回目)の立ち会い終了。前回も要支援2をもらったのに何のサービスも頼まなかった。今回こそはきちんとサービスを利用して生活の質が上げられるところまでレールを敷かねばと思う。
歯が痛くて会話が絶え絶えになるほどなのに半年以上も歯科に行かなかったり、重度の腰痛と視力低下で生活が苦しくても福祉サービスの利用を面倒がったり。母は生き方のメンテナンス力がものすごく低い。ぴったり伴走すると疲弊するので、付かず離れずでやるしかない〉
受け身が身に染みているからか、現状を受け止めて問題解決に動く発想が持てない。歯が痛くても目が見えなくて困っても、ただただ耐えてやり過ごす。身体の不調が増えるたびに、そんな場当たり的なことを繰り返すようになっていた。
このときは要介護1と認定された。要支援2のときよりも手厚い福祉サービスが受けられるようになる。ケアマネジャーさんが組んでくれた介護プランをベースにして、週1でデイケアに通う手続きをして、週2でホームヘルパーさんに入ってもらうようにお願いした。けれど、デイケアは数回行ってから理由をつけてサボるようになり、ホームヘルパーさんが来ても薬や部屋の荷物を触られることを嫌がり、ほとんど雑談だけして帰ってもらうような日が増えていった。
理想の生き方から逸れてしまった現実をいまだ受け入れることができないし、理想とは無関係に思える介入は受け入れたくない。そのように見える母の受け身な姿勢の行き着く先がセルフネグレクトなのかもしれない。
ただ、自ら望んでネグレクトしているわけではないので、頼れる人間には頼りたい思いはあるようだった。頼ろうと思えるのはそんな母の理想の生き方の範囲内に元からいる人間。すなわち、筆者と姉だった。