「いまは家族とラインさえできれば大丈夫」
三女をはじめて抱き上げた記憶がよみがえったのか、矢部の口調には鯨肉の生産を指揮するリーダーらしからぬ当惑がにじんでいた。
二〇二二年の乗船時、日新丸では通信環境が整備され、ラインを用いたメッセージのやりとりこそできるようになったが、画像や動画の送受信はもちろんビデオ通話もできなかった。それが若い船員には不評だったようだ。しかし矢部はまったく苦にならないという。
「いまは娘たちも大分大きくなったし、自分は昔気質のアナログ人間なんで、家族とラインさえできれば大丈夫ですね。そりゃ家族と会えないのは寂しいと感じることもあるけど、船に乗って、クジラを解剖するのが、自分たちの仕事なわけですから」
父を乗せた新幹線を泣きながら追いかけた三姉妹
調査時代、日新丸は一二月上旬に下関港を出港し、南極海を目指した。秋が深まると、矢部は見送りの家族とともに日新丸に乗り込むために自宅近くの新横浜駅に向かった。
ホームに発車を知らせるベルが鳴り、新線線がゆっくりと動き出す。
幼い三姉妹は「バイバイ」と千切れんばかりに手を振り、父を乗せた新幹線を泣きながら追いかける。「危険ですので、点字ブロックより後ろへ下がってください」という駅員のアナウンスが決まって流れた。美保が苦笑いする。
「何度アナウンスされたかわかりません。主人を送ったあとは、娘たちは帰りの自動車のなかで泣き疲れて寝てしまうこともよくありました。少し大きくなったら『泣いたらお父さんが一番、つらいんだよ』と教えると、涙をためながらガマンするようになって。いま下の子が小六になって、ようやく泣かなくなりました」
航海は翌年の三月まで。姉妹は、約五カ月も大好きな父親と離ればなれになってしまう。彼女たちは寂しさに耐えるしかなかった。
家で帰りを待つ私たちの気持ちをわかってくれた
帰りを待つ妻と幼い娘たちの心の支えとなったのも、また家族だった。
「主人のおじいさんも遠洋の船乗りだったんです。おじいさんは亡くなってしまいましたけど、おばあさんは家で帰りを待つ私たちの気持ちをわかってくれた。『最初の一カ月は寂しいけど、二カ月経つと慣れてくるものよ』とか、『子どももいるし、仕事もしているんだから、心配で悩んでいるよりも前向きにしているしかないんだよ』とか……。あと、泣いている娘に、『今度、港に船が入ったら、お父さんに会いに行こう』と声をかけてくれました。そんな一言一言が本当に心強かった」