エージェント契約1番手だった納得の理由

 そもそも、木村拓哉は3回も“バックれ”たあとに、4回目にしてジャニーズのオーディションを受けている。当時を“ワル哉くん”だったと振り返る(※5)青年だった。

 そんな“ワル哉くん”は、1989年、当時17歳の頃にジャニー喜多川に蜷川幸雄のもとに連れて行かれ、初舞台を踏んだことで開眼する。厳しい指導で10円ハゲができて白髪が生えたほどだったが(※6)、50代になってターニングポイントを聞かれても、ヒットしたドラマではなく、この舞台をあげる。「蜷川幸雄さんの指導で、拍手をいただけることがどれだけすごいことか。舞台に上がることがどれだけ大変か。初めて理解できた」(※7)という。「そこでスイッチが入った」「経験していなかったら、たぶん(今の活動を)やっていないと思います」(※8)と語るほどの、重要な仕事である。

 芸能界で大活躍することになる木村拓哉も、仕事に本腰を入れるきっかけは本物の“芸事”に触れた瞬間にある。その後、芸能界で大ブレイクしてしまう木村が、蜷川幸雄の舞台を踏めたのは、その最初の一度きりである。そんな木村拓哉にとって、近年の動きは本来いたかった場所に回帰しようとしているようにも見えるのである。

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 木村拓哉は長きにわたって商品としての自分の勢いを継続させながらも、作品を届けようとしてきた。自分が自分の生産者。23歳のときの発言が、今より説得力を持って響く。

 そして、エージェント制への移行によって「並べて売るのは事務所」ですらなくなるかもしれない状況がやってきた。ここまで述べてきた通り、そのプロデュース能力とはかなり相性がいいものではあるが、むしろ完全に独立してやるタイプだと思う人もいるかもしれない。だが、その選択肢を木村は取らなかった。

旧ジャニーズ事務所 ©︎文藝春秋

 糸井重里は、木村拓哉が二十歳の頃に、「自分の強さはなんだと思う?」と聞いたことがあったという。そのときに木村は「ジャニーズ」と返し、こう付け加えた。

「ジャニーズじゃなかったら僕はなんでもない」(※9)

 自分が生産者であるという強い意識を持ちながらも、自分を客観視することができる。これだけの実績を出しながらも、全てを自分の実力だと認識していない―。その自分を売る事務所の強さも認識し、感謝の意を持つ。意志の強さと謙虚さの絶妙なバランスの上に、木村拓哉は成り立ってきたのだ。ジャニーズ事務所のエージェント制への移行が発表された後、真っ先に事務所が契約に向けて動いている旨が発表されたのが木村拓哉だったのも頷けるのである。

《出典》
※1    TOKYO FM『木村拓哉 Flow』2024年8月11日放送
※2    「AERA」2023年1月23日号
※3    「週刊SPA!」2004年1月13日号
※4    「スポーツ報知」2023年1月1日
※5    TOKYO FM『木村拓哉 Flow』2021年11月21日放送
※6・7 「スポーツ報知」2023年1月1日
※8    TBS『日曜日の初耳学』2023年1月22日放送
※9    「MEKURU」VOL.7

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