貴ノ花は“角界のプリンス”と呼ばれた相撲界屈指の人気力士。当時の蔵前国技館内には激しい怒号が飛び交い、日本相撲協会に抗議電話が殺到。軍配差し違えをした庄之助は翌日から千秋楽までの謹慎処分を言い渡され、辞表を提出した。
「貴ノ花さんを応援していた往年のファンは『あれは貴ノ花の勝ちだ』と言うでしょう。大論争になったあの一番は、後世に語り継がれる名勝負として強く印象に残っています」(同前)
後年、杉山氏が北の富士氏と酒を酌み交わした時のことだった。
「北の富士さんが振り返って『俺はあの時、負けていたと思うなあ』とおっしゃったことがありました。笑顔を交えながら思い出話としてです。自分は勝っていたと信じながらも、どこかで負けていたのかも、という気持ちがあったのかもしれません」(同前)
「北玉時代」の到来
そして、北の富士氏の相撲人生を語る上で欠かせないのが、1970年に横綱同時昇進を果たしたライバル玉の海の存在だ。「北玉時代」の到来だった。
「玉の海さんは右四つ、北の富士さんは左四つ。2人の対戦は左四つになることが多く、大熱戦の大相撲が何番もありました。四つ相撲は非常に実況し甲斐があるんです。数秒で勝敗が決まる突き押し相撲は実況にも限界があるのですが、四つ相撲は実況アナウンサーの力量が試されますし、個性が出ます。これはアナウンサー冥利に尽きる。70年、相撲をみてきていますが、北の富士さんは5本の指に入る忘れがたい力士でした」(同前)
2人の対戦成績は、北の富士が22勝、玉の海が21勝と互角。ところが同時昇進翌年の10月、玉の海は虫垂炎手術後に発症した肺血栓で急逝してしまう。27歳だった。
盟友の死に、人目もはばからず号泣
スポニチOBで元相撲担当の大隅潔氏が語る。
「当時、地方巡業は北の富士班と玉の海班に分かれて行われていました。玉の海さんが亡くなる直前、入院して巡業を続けられなくなった時、自分の巡業を終えていた北の富士さんが駆け付けて土俵入りを代行しているんです。北の富士さんの土俵入りは雲竜型でしたが、その時はわざわざ玉の海さんの綱を締め、彼の不知火型の土俵入りを披露しました」
巡業先で盟友の死を知った北の富士氏が、人目もはばからず号泣したのは有名な話である。
ここ1年は心臓の持病や脳梗塞などで入退院を繰り返しながらも、最期まで解説者への復帰を望んでいたという北の富士氏。今頃は天国で玉の海や貴ノ花、愛弟子だった千代の富士らと思い出話に花を咲かせていることだろう。