大阪・中津の在日韓国人地区で生まれ育ち、喧嘩に明け暮れアウトローの道へと突き進んだ許永中。イトマン事件、石橋産業事件で暗躍し、「闇社会の帝王」「戦後最大の黒幕」と呼ばれた。

 ここでは、そんな許永中の波乱万丈な人生を綴った『許 永中独占インタビュー「血と闇と私」』(宝島社)より一部を抜粋。彼のヤンチャすぎる学生時代のエピソードを紹介する。(全4回の2回目/1回目から続く)

写真はイメージ ©アフロ

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大学に通ったのは、入学式直後の1週間ほど

 彼は、昭和40年4月、大阪工業大学工学部機械科に入学した。

 クラブ活動は、柔道部に入部した。だが、通学したといえるのは入学したその日に正門をくぐった直後の何時間だけだった。

 入学した途端、大学に幻滅を感じた。むさ苦しい7年生、8年生たちがたむろしている。女子大生など、影も形も見当たらない。理工系の大学だから、当たり前ともいえる。後で聞いた話だと、2~3人ほど女子学生もいたらしい。

 梅田から大工大までは市電で通える。大阪市旭区大宮にある大学の最寄駅は大宮といった。駅前にはパチンコ屋が店を構えていた。隣は雀荘。その2階は、玉突き屋だった。3軒とも大工大の学生を当て込んで日々の商いを営んでいた。そこには、かろうじて女の子がいる。腹を減らした野良犬の前に肉塊を置くようなものだ。

 朝からそうした店にたむろする。まともに通学したのは、入学式直後の1週間ほどだった。授業には、一切出ていない。前期試験も受けるには受けたが、答えの書きようがなかった。後期の試験も同様だ。これでは単位など取れるはずもない。

「殴ってこいや」学生を挑発しても喧嘩にならず…

 応援部や空手部のかっこつけた大学生たちを相手に、高校2年のときから彼は喧嘩を売り、恐喝を仕掛けてきた。女子学生もいないような田舎の腐った大学で空手部や応援部といったところで、子供の喧嘩にしかならない。

 彼は高校時代から学生の喧嘩、子供の喧嘩はしてきていない。相手はどこまでいっても、所詮は学生。学生の喧嘩では彼に太刀打ちできない。

「殴ってこいや」

 鉄火場で何度か挑発したことがある。だが、学生はまず手を出さない。

「お前、先輩に対してなんちゅう態度や」

「その口の利き方は、なんや」

 せいぜいそんなことを遠くから言い返すだけだった。