――その借金を返すためにも、村山さんは16歳で働かざるを得なかったと。
村山 最初は奈良のスナックやラウンジで働いていたのですが、当初はまったく仕事にならず、数日で3回くらいクビになりました。当時、私はまだ荒っぽい気性が抜け切れていなかったので、自分の意見をバシバシとはっきり言ってしまう。それに、酒乱だった彼の影がちらついて、酔客の相手が上手にできなかった。酔っている人が苦手で、接客ができない。でも、このままじゃ借金は返せない。それで、大阪のミナミで働くようになったのをきっかけに、何を言われても我慢しようと、徹底してマインドを変えることにしました。「ここは我慢する」と決めたら、絶対に我慢する。「陽子ちゃんは、いつも怒っているみたいだ」と言われていたので、ニコニコすることを心掛けたのですね。
北新地では猫を8匹くらい被っていた
――21歳で北新地のクラブで働くようになり、23歳のときにはお店を任されるママに昇進します。今おっしゃられたようにマインドを変えたことが大きいですか?
村山 それは間違いないと思います。また、働く場所をミナミから北新地に変えたことも大きかったですね。ミナミは、チャキチャキな雰囲気が好まれるので、お客様と話さないと仕事になりません。ところが、北新地のお店では、「もう話さなくていいよ」と言われました。半信半疑だったのですが、確かに、話さなくても接待することに徹すれば、お客様は満足してくれる。仕事のスタイルが変わったことで、我ながら上手に猫を被ったなって思います。あの頃は、猫を8匹くらい被っていました(笑)。北新地は京都をお手本にするところがあります。その影響で、お茶やお花の稽古事にも積極的に取り組むようになりました。北新地に行ったことで、今まで気が付かなかった様な事に気が付けた自分がいました。
――“環境が人を作る”といいますからね。その頃には、お母さんの借金も?