1ページ目から読む
3/3ページ目

 主体を見失わせる話法はメディアにも社会にも横溢している。テレビ人がよく使う、「世間が許さない」とか「という声もありますが」等の責任逃れには、多数派でありたい欲望とともに、個が屹立することを許さない社会への阿りがある。弱い個はミームへと集結しやすい。何が正解なのか。どういう質問をすべきか。彼らにとっては初めから集団に受け入れられる結論だけが重要なのである。ミームはまさにそのためにある様式だ。

石丸氏から伝わってくること

「石丸話法」は、こうした主体の埋没した話法で話すメディア人に対する彼なりの強い抗議だったのかもしれない。石丸氏を見ていると、思考停止した定型表現や硬直した既得権益等への強い怒りが伝わってくる。だが、同時に彼自身にも自説に対する他の解釈を許さない生硬さがあった。石丸話法は、質問者の前提を受け入れず常に自分のメッセージに落とし込む話法だが、それが模倣され拡散することで、メッセージの中身よりも話法が注目されてしまったのである。

 印象は異なるが、「進次郎話法」も「カマラ話法」も切り取りを避け、自身のメッセージに聞き手を集中させるために編み出した話し方だった。ただ、彼らの場合は失言せず、言い過ぎないことを目指しすぎて、しばしばトートロジーに陥る。メディアミームに対抗して身を固くしているうちに自らもミーム化し、またミーム的な批判を浴びる。ミームに対抗する者はミームしか生み出せない。

ADVERTISEMENT

©文藝春秋

 メディアや大衆が聞きたいことはいつも初めから定まっている。ミームの海に誰も彼もを溺れさせてみんなで安心するためである。ミームと離れて生きることがミーム化から身を護る術であり、仮に誤解され炎上したとしても心の裡を素直に表現し続けなければならない。

◆このコラムは、政治、経済からスポーツや芸能まで、世の中の事象を幅広く網羅した『文藝春秋オピニオン 2025年の論点100』に掲載されています。