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香りで万象を知る活神〈香君〉

 上橋さんのファンタジーは、決して現実社会を語るための器や方便ではない。それでも、人間の普遍的な感情と社会への洞察に優れた創作物が、時に、まるで予見するように現実と符合することがあるように、上橋さんが紡ぐ物語は、私たちが生きる社会の有りようも克明に映し出す。たとえば、未知の病である「黒狼熱(ミツツアル)」の蔓延と医療を描いた『鹿の王』が刊行されたのは二〇一四年九月のこと。新型コロナウイルス感染症の最初の感染者が報告されたのは、五年後の二〇一九年十二月のことだった。それからわずか数ヶ月のあいだに世界的流行となったとき、私はホッサルの苦悩を思い出していた。この物語には医療従事者の闘いと葛藤、そして福音のような希望が込められていたことを想い、終わりの見えない夜の底で、心を支えられた。

 そして今作は人と植物(特に主食である穀物)の関わりが主軸となっている。巨大なアグリビジネスによって爆発的に増える人口を支えてきた弊害、今後の食糧危機の時代に一歩ずつ近づいている現在を脳裏から振り払うことはできない。上橋さんもおそらくそうした世界を見渡した上で、しかし、そのまま映すのではなく、そこに潜む美しさを――国境も人種も越えて英知を結集させていこうとする意志や、平和を希求する心、自然や他者と共存する生き方など――たしかにある美しいものを信じながら、物語の種を育まれていかれたのだと感じる。

 

 舞台となるウマール帝国は、かつて神郷からもたらされたオアレ稲という植物をもとに版図を拡大してきた。オアレ稲は非常に強く、どんな気候の土地でも収穫できる奇跡の穀物。だが帝国から配布される種籾と肥料を使わなければ発芽しないとされている。さらにオアレ稲を植えると土壌が変質してしまい、他の穀物を育てることが一切出来なくなってしまう。奇跡の稲は、民を飢餓から救い、富をもたらす代わりに、帝国への絶対的隷属を課す軛なのだ。この強い穀物を軸とする帝国支配の精神的支柱となっているのが、活神「香君」の存在だ。初代香君は、オアレ稲を抱いて神郷から降り立ち、香りで万象を識る能力を持っていたという。

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 香君の力がどれほど強大か、ここで、植物の知性を紹介しながら振り返ろう。植物は定住する生き物だからこそ、テリトリーを守る能力に長けている。土地に張り巡らせた根から、化学物質を放出して、土壌にいる微生物や細菌などと信号を交換し、周囲の性質を変化させていく。攻撃を受けたときには、敵が誰かを識別し、揮発性化合物を放出して、敵の敵を援軍として呼び寄せる。もちろん受粉や種子散布を手伝ってくれる愛しき友人も呼び寄せる。植物は情報の集合体である「香り」という「言葉」を用いて、世界に積極的に語りかけているのだ。香君はたぐいまれな嗅覚で、これら植物の「言葉」のみならず、大気・気候・人間の気配や感情など、世界を形成する多くの情報を読み取ることが出来る。初代香君は神格化され、転生を続ける活神として信仰を集める一方、永遠に富める帝国の象徴であり、支配体制を維持する装置として機能してきたのだ。