2024年11月13日、戦後日本を代表する詩人の谷川俊太郎さんが亡くなった。夏の終わりに、小誌前号の取材で谷川邸を訪ねた内田也哉子さんの追悼文を、『週刊文春WOMAN2025創刊6周年記念号』より、一部を編集の上、紹介します。

◆ ◆ ◆

追悼ができない

内田也哉子

ADVERTISEMENT

「谷川さんが逝去されました」と告げられ、呆然としていたら、新聞や雑誌を編む人から次々に、「谷川さんって、どんな人でしたか?」「思い出を話してください」「追悼文を書いてください」と頼まれた。スマホを開けば、たくさん谷川さんの顔と92年の輝かしい功績が出てくるし、町の本屋を覗けば、いつも以上に谷川さんの詩集が本棚に密集して、人だかりもできている。なんだかみんな、谷川俊太郎というイコンの周りでざわざわしてる。

2024年8月末、内田也哉子さんが連載「Mirror River」の取材のためにご自宅に伺ったときに撮影 (写真:内田也哉子)

「追悼」という言葉を調べたら、「大切な人が亡くなったことを悲しく思い、生前を偲ぶ」という意味だという。

 でも、このあいだ会ったばかりだし、私は谷川さんが息をひきとるのを確かめていないし、生きている時と今との間で、私の中の谷川さんは1ミリも変わらないのに、私は周りの人たちの言葉を鵜呑みにするしかないのだろうか。

 6年前と5年前に母と父が立て続けに死んだ時には、2人ともちゃんと息も脈も止まって、手を触ったら硬く冷たくなっていたから、「あぁ、死んだんだ」と思えた。やっぱり、誰かの言葉だけじゃ、信用できない。谷川さんも「みんな、言葉を信用しすぎ」って、いつも言っていた。

 もともとおもちゃが1つもない我が家にかろうじて存在したのが、谷川さんが翻訳した絵本『ジョゼット かべを あけて みみで あるく』だった。幼い私はすり切れるほどページを繰って、まるで白昼夢を見ているように自由で、ちょっと不穏な世界に浸っていたのだ。だから私の中の谷川さんは、あの不条理劇作家のウージェーヌ・イヨネスコのフランス語を、日本語になおしてくれた人で、私はこどもながらにその言葉の佇まいに恋をした時のままだ。

内田也哉子さん 撮影・平松市聖

 初めて実際にお会いしたのは、私が21歳で子どもを産んで、子育てに行き詰まっていた頃だ。「そんなにバランス取ろうとしなくたって、親なんて、偏っていればいい。お母さんはこういうものが好き、って遠慮なくこどもに示せばいい。こどもは逞しいから、ちゃんとそれを踏まえて “ぼくは、それよりこっちの方が好き”って、自分の道を勝手に探してくれる」って、からっと背中を押してくれた谷川さん。

 母を亡くして間もなく『週刊文春WOMAN』で連載を始めた時は、最初に谷川さんを訪ねた。「死というものがないと、生きることは完結しないんです。僕は死んだあとが楽しみ」と語る姿は清々しくさえあった。そして私に、「これから、あなたはどんなことをしていきたいの?」と問うた。「誰か、人のために少しでもなることを模索していきたい」とたどたどしく答えると、「それには、きっと、おおきな視野で、ちいさなことをする、ってことなんだろうな……」と、一筋の光を射してくれた。

 5年たって連載が一段落し、前号から新しい連載を始めた時に、迷わず最初に会いに行ったのも谷川さんだ。

写真:内田也哉子
写真:内田也哉子

 92歳になって、庭の木々や草花、そこへ訪れる鳥や蝶を眺めて1日を過ごすことが楽しみとなり、「もう自分の死にざまにしか関心がない」と言ってのけた。それでも私が根掘り葉掘り谷川さんの言葉を引き出そうとすれば、「変なことを言うよりも、黙っているほうが正確だろうし、相手に伝わるんじゃないかということはしょっちゅう思っていました。僕は『言葉』を信じないんです」と、まさに本質をまっすぐに突いてみせた。あれから2カ月ちょっとしか経っていない。

◆ 内田也哉子さんの追悼文の全文は、『週刊文春WOMAN2025創刊6周年記念号』でお読みいただけます。