2024年6月14日、内田也哉子さんが戦没画学生慰霊美術館「無言館」の共同館主に就任することが発表されました。そのきっかけの一つとなった、無言館の創設者であり館主の窪島誠一郎さんとの対話を公開します。

※本稿は内田也哉子さんの著書『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』からの抜粋です。

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戦死した画学生の作品を遺す美術館

内田 戦争について今一度見つめ直したいと思い、久しぶりに無言館をお訪ねしました。初めて来たとき、まるでスイスの山奥に数百年もたたずむ小さな教会のようだなぁと思ったのですが、そのたたずまいも、静謐で温かな空気も少しも変わっていません。木の扉を開けると、日中戦争と太平洋戦争で亡くなった画学生たちの遺した絵画や彫像、遺品となった絵の道具、戦地からのハガキなどが展示されている。正式な名称は戦没画学生慰霊美術館「無言館」。創設者であり館長である窪島さんが名付けたのですね。

窪島 ここにある絵は無言だけど見る人に多くを語りかける。訪れた人は絵を前に誰もが無言になる。──というのは後から考えた理屈で、実はふと思いついたに過ぎないんです。でも、我ながらよくぞいい名前を思いついたものと、自惚れているんですけどね。

絵・内田玄兎

内田 窪島さんが私財を投じて1997年に建設。その前に信濃デッサン館という美術館も建てています。

窪島 自分で集めた絵が溢れ出したので、それらを収めるために建てたのです。

内田 比較的マイナーな画家の絵ばかり集めていたそうですが、それはなぜですか。

窪島 よく「絵がわかる」というでしょ。でも僕はそもそも「絵がわかる・わからない」というのがわからない。ただ、魅かれる絵がある。その絵を描いた人がどういう人で、どんな思いで、どんな生き方をしていたのかということに魅かれるんです。だから例えば、1919年にスペイン風邪で22歳で死んだ村山槐多、同じく20歳で死んだ関根正二、脳腫瘍で30歳で死んだ野田英夫のように、思いを遺して早世した画家の絵には特に魅かれます。これは無言館にも通じます。志半ばで死んだ、無名の“画家未満”の若者の絵に強く魅かれるんです。

内田 窪島さんは、生まれた3週間後が真珠湾攻撃だったそうですね。よく「無言館は反戦や平和を訴えるために建てたのではない」と発言され、自伝的小説『流木記』には「画家には二つの命がある。一つはナマ身の命、もう一つは作品にこめられた命」と書かれています。つまり作品がこの世からなくならない限り画家は死んでいない。だから、あまりにも若くして戦火に散った画学生たちの「もう一つの命」を守るために建てたのですね。

窪島 自らも東京美術学校(現・東京藝術大学)を繰り上げ卒業させられて召集され、戦地から復員された、現在101歳で現役の洋画家である野見山暁治さん(2023年6月に逝去)が、「このまま戦死した画友たちの絵が霧散してしまうのが口惜しい」とぽつりとおっしゃったのを聞いたのがきっかけでした。まもなく戦後50年を迎える頃のことで、今から収集して保管すれば、散逸を防ぐのにまだ間に合うんじゃないかと思いました。