敬愛する作家が実の父だと36歳で知った
窪島 成人式当日は、いつもはゲストが帰るとホッとするんですよ。筑紫哲也さんとか菅原文太さんとか山田洋次さんに来てもらったときは、お見送りしてやっと肩の荷が下りたものです。でも、希林さんが帰ったときは寂しくてね。ちょっとがっかりしていたら、電話がかかってきた。「まだいるのよ、近くに」って。
うれしくて、すっ飛んで行って、別所温泉の旅館のレストランで4時間以上、お酒のんで話しました。ご自分ががんの塊だということをおっしゃっていて、僕もくも膜下出血で倒れた直後だったから、テーマは「死」でしたね。思えば、亡くなる2年前のことでした。
そのご縁で、今年の成人式は也哉子さんに来てもらい、新成人ひとりひとりに手紙を書いてもらったんですが、普通に家でフラフラしてる奥さんだと思っていたら、大間違いだった。
内田 そう、基本的にはフラフラしているだけです(笑)。
窪島 いやいや、この雑誌のエッセイの連載だけでも文章のセンスのよさ、モノの見方が独特であることがわかるし、『SWITCHインタビュー』(Eテレ)で吉田カバンの創業者の息子さんと対談しているのを観ても、大したもんだなあと認識を新たにしたんです。
内田 吉田カバンといえば、窪島さんはご愛用ですよね。
窪島 このトートバッグがそうです。持ち手の部分だけ直したけど。
内田 以前、お電話で、実のお父様の水上勉さんから唯一もらったものが吉田カバンのバッグだと伺いました。
窪島 そう、ほかには何ももらわなかったけど、カバンは2つもらいました。実際に水上先生が使っていたんですよ。小説を執筆するための資料を詰め込んで、ものすごく重そうだったので僕が持ってあげたこともあります。
内田 お父様のことを「水上先生」と呼ばれるんですね。お父様ご本人に対してもそう呼んだのですか。
窪島 だって初めて会ったのは、僕が36歳のときですから。もう「お父さん」と呼べる歳ではなかったし、僕自身、代表作の『飢餓海峡』に登場する岬を見に北海道まで行くほど、昔からの水上ファンでしたからね。
内田 まさか自分の好きな作家が父親だとは。自分を育てたご両親が養父母だと知らず、でも13歳ぐらいのときに親と似ていないことや血液型が親子としてはおかしいことに気がついたんですよね。
そして実の父、母を探し始め、36歳のときに水上さんにたどり着いた。驚いたことに、お互いに世田谷の成城に住んでいたんですね。最初に父子が対面したときはどういう空気感だったんですか。
窪島 先生の軽井沢の別荘で2人きりでした。先生は当時58歳。僕を一目見て、自分の息子だとわかったそうです。自分の書いたもので何が好きかと聞かれ、僕は『飢餓海峡』や『越前竹人形』ではなく、『蓑笠の人』という、誰も読まないような短編を挙げた。これがまた泣かせてね。「あれを読んでいてくれたか」と。
内田 窪島さん、天性の人たらしですね(笑)。
窪島 うれしかったし、父親を大好きになったけど、もし、探し当てた父親が普通の市井の人だったらもっと生きやすかっただろうなとも想像します。
私たちが再会したことは、父親が有名人であったために大ニュースになったんです。1977年のことですが、父のスキャンダルとして報じるメディアもありました。父は戦時中に僕の母と同棲して僕を授かるのですが、生活苦から僕を手放し、僕は子どもがいない靴屋夫婦の実子として育てられたんです。
僕が実の親を探し歩いた日々のことは、その後、NHKの連続ドラマにまでなったから、世間の僕を見る目は違ってきました。どんなに夭折した画家の発掘に努め、その評伝や研究書を書いても、「戦後三十数年を経て有名作家との再会を果たした奇跡の子」というのが僕に貼られたレッテルになってしまいました。
それはあなたにもついて回りますよね。誰もが知っている一流の女優の娘だということが。でも、あなたの場合は恨みもしないし、ごく自然に、素直に生きている。母上の教育も本当に上手だったんだなと思います。