寂しさは宝。寂しくなければ仕事なんてしない
内田 窪島さんはもっと葛藤がありましたか。
窪島 葛藤といえばかっこいいけれど、ひねくれていましたね。水上先生を敬愛していながらも、故郷の福井につくった文学館の館長になってくれと言われれば断る。彼の文学世界を愛してはいたけど、そこに近づくなんていうのは嫌でした。
内田 私も葛藤はあります。母が亡くなってから、彼女の遺した数々の言葉のインパクトがいまだにあって、そこに私はたたずんでいるという感じです。もちろん母とは関係ないところで生きてみたいという思いもあります。でも、一度どっぷり母や父との関係と向き合ってみる機会にするしかない、一度突き抜けてみようと思っています。その先に何が見えるのかに想いを馳せながら。
窪島 それは大テーマですね。僕もどんなものを書いても、水上勉を通り抜けるわけにはいかないんです。養父は靴職人でしたから、僕は36歳までは靴屋の子、36歳以降は作家の子になった。そういう体験をした人はそんなにいないわけだから、自分を一つのモルモットにして、何か普遍的なものを書く。それはやらなければいけないことだと思っています。
無言館の成人式で也哉子さんが新成人たちに話をしている、その後ろ姿を見ていたら、也哉子さんは也哉子さんで、僕と同じぐらいの海の深さに生きている仲間だなと思ったんです。でも、80歳になったから偉そうに言わせてもらいますが、寂しさは宝だと思います。寂しくなければ仕事なんてしないんじゃないかな。
内田 仕事というのは「書く」ということですか。それともすべての仕事ですか。
窪島 何もかもですね。生きるためのことに一生懸命になるのは、ひとえに、1センチでも5ミリでも寂しさから離れたいというのがあるからではないでしょうか。寂しいということが仕事の原動力であると同時に、その跳ね返りとして、人に認めてもらいたい。よくやったと言われたい。無言館なんかまさしくそうでしょうね。
内田 どういうことですか、無言館がまさしくそうだというのは。
窪島 戦争で亡くなった画学生が気の毒だからだとか、あるいは将来の若い人たちに平和な世界が訪れますようにとか、そんな世のため人のためにやった覚えはないんですよね。
でも遺族を訪ねると、お寿司は取ってくれるわ、ビールの栓は抜いてくれるわ、大歓迎してくれるわけですよ。そうやってお借りしてきた大事な形見の絵を展示する美術館をつくったら、世間から「ご立派なことをなさって」と言われて、もう、うれしくてうれしくて。
内田 そのご自身や現象を客観的にとらえる目には唸らされます。無言館は、水上勉さんの援助は一切受けずに建設し、運営されてきたんですね。
窪島 1964年の東京オリンピックのときに、マラソンコースの沿道でおにぎりを売って大変もうけましてね、そのおにぎりを握ったのが今の奥さんなんです。バーの開店、支店の拡大……みるみる板垣退助(当時の100円札)が束になりました。
内田 喜怒哀楽をもじった「キッド・アイラック・ホール」もつくって、そこはライブハウスの先駆けになったそうですね。
窪島 当時、僕はサラリーマンもやっていて渋谷の生地屋に勤めていたんだけれど、月給が5000円でした。一方、おにぎりの売り上げだけで一日2万円。子どものころから絵を描くことや文章を書くことが好きで、文学を目指そうとか、画家になりたいとか思っていたのに、お金が入ってきたら稼ぐことのほうがおもしろくなってしまった。
内田 自分のストイックなものに対する情熱がお金の残酷さでパワーを失ったと思われますか。
窪島 でも、あの時間、あのお金がなければ、無言館を建てるなんてことはできなかったわけで、全部を否定するわけにはいかない。ただ、高度成長期の頃の日本人は、都合のいい記憶障害になっていましたね。沖縄では何十万の人、原爆では二十何万人、戦争で三百何十万人もの自国民が亡くなっているという意識は、少なくともおにぎりを売っている僕にはひとかけらもなかったです。ただひたすら板垣退助だけ見つめていた。
ウクライナの戦争を見てもつくづく思います。戦争がなければこの無言館はなかった。僕は本来あってはならない美術館をやっている。それは僕自身のたどった人生も同じような気がします。金儲けが悪いというわけではないけれど、もう少し次の時代がどうなるか、これだけ空気を汚して、これだけ気候変動を起こし、原発をつくっていいのか考えなければいけなかった。存在してはならない「無言館」が役に立つとすれば、今からでもそういうことを考えるきっかけをここで得てもらうことだと思います。