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著名な四代目が活躍したのは、ちょうど蔦屋重三郎の幼少期、つまり宝暦年間(1751~64)だった。下総(千葉県北部と茨城県南西部)の農民の生まれで、大変な才色兼備であったと伝わる。美貌が群を抜いていたのはもちろんのこと、三味線、浄瑠璃、笛太鼓、舞踊から、茶の湯、和歌、俳諧、果ては囲碁にすごろく、それに蹴鞠まで、まさになんでも来いという才女だったという。文才にもすぐれ、書も美しかった。

そんな魅惑的な女性だっただけに、身請けをしたいという男性が引きも切らなかったという。結局、豪商の江市屋宗助に身請けされ、両国近辺に囲われたとされるが、三十路を迎える前に命を落としたようだ。

遊女たちが罹患した不治の病

しかし、吉原の遊女としては、四代目瀬川がとくに短命だったというわけではない。吉原など江戸の廓の裏側を実地調査した歴史学者、西山松之助の著書『くるわ』には、「投げ込み寺」として知られた浄閑寺の過去帳によれば、この寺に遺体が運ばれた遊女の享年の平均は22.7歳だった、と記されている。

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もっとも、これは遊女として亡くなった人の平均であり、「苦界十年」といわれた年季が明けたり、身請けされたりしたのちに、長生きした例はふくまれていない。だが、そうであっても、若死にがあまりに多かった吉原の遊女の、過酷な状況が伝わってくる。

原因のひとつが、戦国時代に西洋から輸入された梅毒だった。江戸時代には「瘡」「瘡毒」など呼ばれて全国区の病となり、都市の遊郭では感染して当然というほどポピュラーになっていた。病が進行すると、よく知られるのは「鼻欠」「鼻腐」、すなわち鼻周辺にゴム腫ができ、骨や皮膚の組織が壊れて鼻が削げてしまう、という症状だが、さらに進行すると、心臓や血管などに感染症が広がり、やがて死にいたった。

解体新書』で知られる杉田玄白は、患者の7~8割は梅毒だと語っていたという(鈴木隆雄著『骨から見た日本人』講談社学術文庫)。しかも当時の梅毒は不治の病で、それにもかかわらず、遊女たちは感染リスクがきわめて高い仕事を、過酷な生活スケジュールで免疫力を下げながらこなしていたのである。