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蔦重と同世代の花魁だった

さて、「べらぼう」で小芝風花が演じる花の井も、松葉屋の遊女となり、のちに五代目瀬川の名跡を継ぐが、その前半生についてはわかっていない。ただ、五代目瀬川の名跡を名乗ったのは安永4年(1775)で、仮にそのとき20歳だとすれば、寛延3年(1750)生まれの蔦重の少し年下ということになる。

いずれにせよ、蔦屋重三郎と同世代であったことはまちがいないため、「べらぼう」では蔦重の幼馴染として描かれている。五代目瀬川を名乗ってからは、吉原を代表する花魁として江戸中にその名が知られることになった。

ところで、高級遊女の代名詞として知られる「花魁」だが、その言葉が使われるようになったのは意外と遅く、まさに蔦重が吉原で成長し、花の井が働きはじめた明和(1764~72)のころからである。

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初期の吉原は最高位が「太夫」、続いて「格子女郎」「局女郎」という位があり、こうした遊女と遊ぶためには莫大な金がかかり、支払うことができたのは大名や上級武士など、ごく一握りにかぎられた。ところが、17世紀後半以降、岡場所(幕府非公認の私娼街)の摘発などによって、安価に遊べる遊女が吉原に流入。町人や下級武士も吉原に通えるようになって、一時は吉原全体がにぎわったが、その後、岡場所がふたたびにぎわうのに反比例して吉原から客足が遠のいた。

「べらぼう」でも吉原の不振が描かれているが、実際、蔦重の幼少期にあたる宝暦のころに「太夫」の名が、続いて「格子女郎」の名も消滅。代わって最高位の遊女とされたのが花魁だった。高下駄を履いて、外八文字にゆっくり歩くあの「道中」が見られるようになったのも、江戸時代後期からである。

1億8000万円で身請けされた

五代目瀬川に戻ろう。安永4年(1775)に名跡を継ぐと、その年の暮れには鳥山検校(けんぎょう)という人物に身請けされ、世間の大きな注目を浴びている。というのも、身請けのために1400両もの金額が投じられたからである。時期にもよるが、1両はおおむね10万円から15万円であったと考えられる。仮に13万円とすると1億8200万円である。