家族のため自発的に身売りした娘も

それにしても、「女の値段」はあまりに安いが、妓楼の理屈は、

「稼げるようになるまで、ただ飯を食わせなければならないのだから」

というものであったろう。

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妓楼は女の子が客を取れるようになるまで、禿(かむろ)として育てなければならない。つまり、「即戦力」ではないという論法である。

『宮川舎漫筆』と『きゝのまにまに』に、身売りの事例が載っている。

安政4年(1857)、下級武士の娘が貧窮におちいった親きょうだいを助けるためみずからすすんで吉原に身売りをしたが、その値段は十八両だった。現在の180万円である。

武士の娘は吉原ではいわゆる上玉であろう。それでもわずか十八両だった。

落語の身売り話にくらべると悲惨なくらい低い金額だが、これが現実だった。

競売にかけられた遊女たちの値段は…

天保12年(1841)閏1月、町奉行所は岡場所の私娼を大々的に取り締まり、召し捕った女を競売にかけて吉原に売り渡した。

そのとき、妓楼がセリで入札した女の名前や給金が『藤岡屋日記』に出ている。なお、「給金」と言っているが、実際はセリ落とした金額である。その、ほんの一部を紹介する。

きん 19歳  角町近江屋へ 金七両三朱
たけ 18歳  角町叶屋へ 金五両
きん 24歳 角町丁子屋へ 金二両二分
つね 17歳  江戸町一丁目丸亀屋へ 金五両二分

岡場所の遊女だったため、妓楼にとっては「即戦力」になる人材だが、金額はこの程度だった。

「女の値段」という場合、ふた通りの意味がある。妓楼が客に遊女を売るときの値段(揚代)と、妓楼が女を仕入れるときの値段である。前者にくらべ、後者は啞然とするくらい安い。

白米を食べられると「苦界」を耐え忍んだ

遊女の境遇を「苦界」という。妓楼に身売りして遊女になることを「苦界に身を沈める」といった。

遊女の境遇は連日連夜、不特定多数の男との性行為を強制されるというものだった。しかも、年季が明けるまで辞めることはできない。苦界ということばの持つ意味は重い。