江戸幕府によって公認された遊廓・吉原には、地方出身の女性が多く働いていた。なぜ彼女たちは生まれ故郷から遠く離れた江戸にやって来たのか。作家・永井義男さんの著書『図説 吉原事典』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。

「吉原高名三幅対」(出所=「国立国会図書館デジタルコレクション」より、加工して作成)

「奉公人」として働く遊女の実態

幕府も建前としては人身売買を禁じていたため、表向き遊女は年季と給金をきめて妓楼に奉公をする奉公人という形式になっていた。きちんと証文(しょうもん)も取り交わす。

しかし、実際には貧しい親が給金を前借りする形で、娘を妓楼に売り渡していた。いわゆる身売りであり、実質的な人身売買だった。

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身売りには、親や親類が直接娘を妓楼に売る場合と、いったん女衒(ぜげん)に売り、女衒が妓楼に売り渡す形があった。

女衒はいわば人買い稼業である。江戸から遠い農村では、親は女衒に頼まざるを得なかった。

生活に困り、三~五両で娘を売った

身売りの金額はいくらくらいだったのだろうか。

落語の『文七元結』では、職人の娘が一家の窮状を救うため吉原に身売りをするが、その代金は五十両である。落語『柳田格之進』でも、妻が浪人している夫のために吉原に身売りをするが、その代金は五十両である。

しかし、現在の500万円に相当するこの金額は、時代考証としては信憑性はない。

落語は独特の誇張がある。また、たとえ古典落語でも時代や演者によって改変がなされている。五十両は現代の聴衆にわかりやすい、切りのよい数字であろう。

では、史料ではどうだろうか。

『世事見聞録』(文化十三年)に、

「みな親の艱難(かんなん)によって出るなり。国々の内にも越中・越後・出羽辺り多く出るなり。わずか三両か五両の金子(きんす)に詰まりて売るという」

とあり、越中(富山県)・越後(新潟県)・出羽(山形・秋田県)の貧農が生活に困り、三〜五両で娘を売っているという。現在の30〜50万円である。

この場合、女衒が農村をまわり、幼い女の子を三〜五両で仕入れている。女衒はこれに経費と利益を上乗せした金額で、妓楼に売り渡していた。