メキシコの俊英、ミシェル・フランコ最新作は、アカデミー賞女優、ジェシカ・チャステインと、ヴェネツィア国際映画祭男優賞のピーター・サースガードによる、名優ふたりの大人のラブストーリー。傷つくことを恐れて生きているすべての人に観てほしいヒューマンドラマが誕生した。

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オスカー女優、ジェシカ・チャステイン(右)×ピーター・サースガードという名優ふたりの演技が光る ©DONDE QUEMA EL SOL S.A.P.I. DE C.V. 2023

あらすじ

シングルマザーのシルヴィア(ジェシカ・チャステイン)は、ソーシャルワーカーとして他人を助ける仕事に奮闘している。かつてはアルコール依存の問題を抱えていたこともあったシルヴィア。いまはそれを乗り越え、NYで13歳の娘アナ(ブルック・ティンバー)と2人、穏やかで規則正しい日々を過ごしている。

ある日、妹に誘われて渋々参加した高校の同窓会で、シルヴィアはソール(ピーター・サースガード)という男性と出会う。ソールのある行動により、シルヴィアに忌まわしい過去の記憶が蘇る。実はソールのこの不可解な行動は、若年性認知症によるものだった。記憶に翻弄されるふたりは、やがて、お互いを想い合うようになるが──。

フランコ監督が描く、大人のラブストーリー

 映画『あの歌を憶えている』は、『ニューオーダー』(20年)で第77回ヴェネツィア国際映画祭審査員大賞を受賞したメキシコの俊英ミシェル・フランコ監督の最新作。社会の闇や過酷な真実に迫り続けてきたフランコ監督が、次はどのようなダークな世界を描くのか、楽しみにしていたファンも多いだろう。

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 ところが本作は、『ニューオーダー』の目を背けたくなるようなディストピア・スリラーからは一転。観る者の心に沁みわたる大人のラブストーリーに仕上がっている。

「何らかの理由で社会のすき間に落ちてしまう人々についての映画を作りたかった」と語るフランコ監督。本作では、忘れたい記憶を抱え続ける女性と、忘れたくない記憶を失ってゆく男性を描いた。何かに導かれるように出会ったふたりが、やがて互いにとって必要な存在となっていく物語には、真実を愛で包み込む奥深い視線を感じる。

シルヴィアの消えない過去の傷

 物語は、ソーシャルワーカーとして働くシングルマザーのシルヴィア(ジェシカ・チャステイン)が、過去のトラウマが原因で陥ったアルコール依存を克服し、娘のアナ(ブルック・ティンバー)とふたりで暮らしている日常から始まる。一見穏やかで静かな日々を送っているシルヴィアだが、心の奥底には過去の傷が澱のように沈み、決して消えることはない。

 人間は忘れるから生きていけるとよく言われる。たとえば、出産時の陣痛はその典型ともいえるだろう。強烈な傷みも恐怖も、記憶が薄れればこそ、2人目、3人目を産もうと思える。生々しい傷みの記憶がずっと残っていたら、誰も「もう一度出産を」とは思わないのではないか。

 しかし、シルヴィアにはこの忘却の魔法がかからなかった。過去の傷が大きかったのはもちろんだが、その傷をさらに深くえぐるような扱いを受けたことが大きな原因だった。

トラウマが原因で心を閉ざし、他人と接触しないように生きてきたシルヴィア ©DONDE QUEMA EL SOL S.A.P.I. DE C.V. 2023