手術室に行く時に母は「心配かけてごめんね」と話していて、ストレッチャーにも自分で乗っていました。ただ先生からは「手術中に他の血管を切ってしまったら即死することもあり、重い障がいが残ることは間違いないです」と言われていたので覚悟をして送り出しました。
手術で命は取り留めたんですが、1週間後に脳梗塞を併発して。連絡を受けた私が学校から病院に駆けつけると、頭が風船のようにパンパンに腫れ、ストレッチャーに乗せられた母が手術室に運ばれていくところでした。人工呼吸器を装着した状態で2か月ほど過ごしましたが、その後、奇跡的に自発呼吸が戻りました。
言語障がいに右半身不随、知能の低下と重度の身体障がい者となりましたが、それでも脳卒中の後遺症を抱えた状態ではありましたが、だいぶ良くなった方だと思います。
父からは「お前がきょうから母親だ」と…ヤングケアラー時代の苦労
――そこから町さんはお母さんを介護する、今でいう「ヤングケアラー」となります。
町 父が何もやってくれないので。当時中学3年生の弟、小学6年生の妹がいたんですが、父からは「お前がきょうから母親だ」と言われ、弟と妹の学校のことであったり、料理、洗濯、掃除といった家事、それに入院代などで苦しくなった家計のやりくりまで全部私がやらなければいけなくなりました。
母が病院からリハビリを終えて戻ってくると聞いても、これから続く介護のことを考え、私は手放しでは喜べなかったです。でも寂しい思いをしていた妹が「お母さん帰ってきてよかったね」と言ってくれたのでハッとしました。
一番寂しい思いをしていたのは、病院でリハビリをしていた母なんですよね。母のいる場所はやっぱりうちなんです。
母が戻っても日中は私たちは学校にいるので、母は1人で家にいないといけない。もし何か事故やトラブルがあっても、母は自分で電話を使って外に連絡することができない。しゃべれないし、電話もかけられない。だから不安や怖さはありました。
――高校生にはあまりに重責です。投げ出したくはなりませんでしたか。
町 逃げ出したくなかったかといったら、嘘になります。私は一生懸命やっているのに、父は何かと当たってくるので。でも弟と妹がいたので、もう逃げ出せなかったですね。2人が社会人になるまでは、私が逃げ出しちゃったらダメだって思いました。
母が障がい者になって、父が飲んだくれで。「どうせ大した人生を送れない」と自暴自棄になって、道を踏み外してもおかしくないわけですよ。でも、だからこそ親は親、私たちは私たちでやっぱり生きていかなきゃいけない。そういう姿を2人には見せないと、と思ってました。
介護しながら受験して全落ち、1年浪人して立教大学に入学
――周囲の助けはあったんでしょうか。
町 当時は周りで介護している人たちがいなかったので、自分たちで試行錯誤していました。誰かに頼るっていう選択肢も思いつかない。母の車椅子を押して市役所に行っても「困ってますか?」とは聞かれなかったです。
当時はヤングケアラーという概念もなかったですし、役所の人たちも「お母さんが病気で大変ね」って思っていたぐらいだと思います。
今の社会だったら多分あり得ないと思いますけど、当時は役所の人が、「声かけちゃったら何かやらなきゃいけなくなっちゃう」と考えていたのかなと。でも別に助けてあげられるわけじゃないし、だったら気づかないふりをしてた方がいいという判断だったと思います。

