――町さんは高校3年生。介護もあって大変な中での受験でした。

 結果は全部落ちました。受かる余地もなかったです。高校は進学校だったんですけど、父に厳しく「勉強しろ」と言われたことで逆に勉強する意味がわからなくなっていて。母も家を出ることは了承してくれていて、高校卒業したら自立しようと思ってたところに母が倒れて、家から出ることはできなくなりました。皮肉ですよね。

家族で旅行した際の町さん(写真=本人提供)

――そこから町さんは介護をしながら1年浪人して立教大学に入ります。なぜ4年制大学に行こうと思ったのですか?

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 母が倒れたことは全てをリセットするような出来事でした。父は助けてくれないし、家族はこれから私の助けがなければ生きていけなくなった。人生を打開するための頼りは、もう自分しかいないんですよね。だから、将来のことも考えて4年制大学には行っておいたほうが良いと思ったんです。

 1浪して立教に入り、入学式には母を連れていくこともできました。大学時代は奨学金をもらい、アルバイトもしてました。授業やバイトが終われば家に帰り、家事をする。遊んでいる時間はほとんどなかったですね。

「障がい者の問題を取り上げたい」アナウンサーを目指したきっかけ

――大学卒業後は日本テレビに入社しアナウンサーとなりますが、そもそもなぜアナウンサーをめざしたんですか。

 大学時代に母と一緒に過ごす中で、思ってる以上に障がい者が生きづらいことを知ったんです。私が母を介護していた1990年代は全然バリアフリーではなかったので、もうトイレを探すのも一苦労でした。

 まだ葛西臨海公園に初めて多目的トイレができたくらいの時代でした。車椅子の母を連れているとジロジロ見られますし、白髪のおばあちゃんに「あんたたち本当に偉いね」と泣かれちゃう。

 パラリンピックの水泳競技で15個の金メダルを取られた成田真由美さんとは取材を通し、今も仲良しなんですが、初めて成田さんを知ったのはアトランタパラリンピックで金メダルを取った時の新聞記事でした。

 その時も大会直後のスポーツ欄とかではなく、大会が終わった後の人物欄に「障がいを持っているのに頑張った人」として書かれていて、そこにもすごく違和感がありました。

倒れたあとのお母さん、妹、町さんのスリーショット(写真=本人提供)

 そういうことは母が倒れて障がい者にならなければ気づかなかったことです。もしそうでなかったら今でもきっと見て見ぬふり、自分には関係ない問題だと思ってたかもしれない。でもそういうことを伝えられたら、伝えることで障がい者に対する状況を変えるきっかけになれたら。そう考えて、アナウンサーを目指しました。

 アナウンサー試験では「障がい者の問題を取り上げたい」「生きづらさを抱えている人たちにスポットを当てるような報道がしたい」「パラリンピックの取材をしたい」と伝えて、日本テレビに入社することになりました。

撮影=平松市聖/文藝春秋

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