泥団子熱の崩壊

 だが、終わりは唐突に訪れる。泥だんご熱病が蔓延しはじめてから一ヶ月もした頃だったろうか、休み時間に教室の誰かがひょんな遊びをはじめた。二階か三階にある教室の窓から校庭に向かって泥だんごを放り投げたのだ。スーッとほんの一秒か二秒、磨き込まれた表面が空中でキラリと光を放った泥だんごは、そのまま地面で粉砕して小さな円を描く。どんな彩りの泥だんごも砕ければ同じような土色の模様だ。

 この遊びが何かに終わりを告げた。あれほど大切にしていた泥だんごが窓際に雑然と並べられ、放り投げられるのを待つだけになった。熱病を吹きこぼしていた泥だんごはただの冷えた泥に帰した。僕の宝石箱も泥で汚れたゴミ箱に姿を変えた。

もっと大規模で省エネで無人の泥団子経済を夢見る

 冷たく(つい)えた思い出は、しかし、未来への着火剤である。「お金には色がない」とよくいう。お金は義理と人情に無頓着で、過去のいきさつに囚われない。慈善事業で手に入れた一万円札も詐欺恐喝で手に入れた一万円札も同価値である。それに逆らって、お金を泥だんごのように個性豊かに彩ることはできないだろうか。無味乾燥に数字を突きつけているお金ではなく、ひとつひとつ別の色や熱がこもった泥だんごみたいなお金で動く経済だ。

ADVERTISEMENT

 ただ、思い出の泥団子プチ経済をそのまま動かすのは大変すぎる。泥団子の製造も大変だし、大雨でも降って泥団子がベチャベチャになっちゃったら台無しだ。どの泥団子をどの泥団子と交換すべきかも難しい。いちいち悩みぬいて決めなくちゃならない。泥団子名人や泥団子製造網をたまたま作れたビジネスマンが現れると無双してしまいそうなのもまずい。一人勝ちを許してはいけない。勝負が際どく勝者と敗者が入れ替わったり、負けだと思ったら実は価値への布石だったりする起伏がないと経済は人の心を掴み続けられない。そして何より、泥団子で経済が成立するのは教室か家族かご近所さんくらいである。

©SAKIKO NOMURA

 泥団子クラス経済の精神はそのままに、もっと大規模で省エネで無人で小回りが利く泥団子経済はできないだろうか。そんな夢を見てみたい。ただ夢を見る前に、まずは今ここの現実に立ち返る必要がある。