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ニセ中国語「シェイシェイ」の起源は意外に古かった!

 ところで「謝謝」を「シェ・イ・シェ・イ」と明確に4音節に分けて発音した場合、これは世界中で日本人にしか通じないニセ中国語と化す。餃子の王将の店内用語である「ソーハンダイ(炒飯大盛り)」とか、麻雀用語の「ハク・ハツ・チュン(白発中)」などと同じく、中国語っぽいだけのただの日本語だ。

 このニセ中国語「シェイシェイ」の起源は何か。いざ調べてみたところ、表記の出現はかなり古かった。ちょっと検索しただけでも、例えば日露戦争の直後で清朝末期の1906年に刊行された中国語の会話テキストから「シェイシェイ」の用例を確認できる。

『日淸会話捷径: 北京官話』(1906年,弘成館)に見られる「シェイシェイ」表記。国立国会図書館デジタルコレクションより。ただ他のページでは「多謝(ドーシエー)」などと書いてあり、表記は一定していない。

 もっとも、当時のテキストでこの表記がなされたのは、理解できる事情もある。20世紀初頭時点の中国では「謝謝」を「シェイシェイ」に近い音で読む人が相当数いたと思われるからだ。

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「シェイシェイ」は中国語の標準発音が定まる前の音かも?

 中華民国建国の翌年の1913年、これまで各地で発音がバラバラだった中国語の標準音を制定することになり、各省1票で正しいと考える漢字の音を多数決で決め、それを組み合わせて中国の標準語を作る試みが行われたことがある(ここで決められた標準語音は老国音といい、現代の中国大陸や台湾の標準的な発音とは違う発音も多い)。

 この老国音では、現代中国の普通話だと「ie(イエ)」となる母音が「イャイ」みたいに発音されることになっていた。すなわち「謝謝」という言葉についても、20世紀初頭の中国では「シャイシャイ」みたいに発音するほうが正しいと考える地域が多かった模様なのだ。

 上で紹介した『日淸会話捷径』のテキストが作られたのは老国音が定まる7年前だが、当時の華北地方では「シャイシャイ(シェイシェイ)」に近い読みがそこそこ使われていたのだろう。なので、1906年の中国語テキストが「謝謝」に「シェイシェイ」とルビを振ったのは、現地の発音を比較的忠実に表記した結果だったかと思われる。

 ただし1920年代〜30年代にかけて、中国では標準語政策の転換のなかで北京語音が重視されるようになり、「謝謝」も北京風に「シエシエ」で読むのがスタンダードだとみなされるようになる。やがて人民共和国の成立以降に標準語「普通話」が制定され、その発音が完全に確定した。結果、日本語の「シェイシェイ」表記はネイティヴの発音から大きく遠ざかることになった。

 だが、日本では戦前の「シェイシェイ」表記が正しいと思われたまま、戦後も1990年代前半ごろまで使われ続けた。これは戦後の日中間の国交断絶や中国の経済停滞のせいで、標準音を話す中国人と日本社会との接点があまりなく、対して戦前・戦中期に中国大陸と関わりを持ち「シェイシェイ」発音に慣れ親しんだ日本人が多くいる状態が長く続いたためではないかと思われる。

 日本人限定のニセ中国語「シェイシェイ」はこのようにして生まれたのであった――。と、私はそんな仮説を考えている。