「未知の場所に飛び出して、いろんな景色と人を見てこい」
「カ、カトマンズ⁉︎」
当然、理解が追いつかなかった。何それ、どこ? 困惑している僕に彼は畳みかける。
「若い頃、俺が音楽で悩んでいた時に先輩ミュージシャンから勧められたんだけど、忙しくて行けなかったんだ。お前が代わりに行ってくれ!」
彼は世界地図をスマホの画面に映し出し、カトマンズの場所を調べ始めた。何かの間違いだと思い、改めて僕は言った。
「あの、バンドが解散することになったんです」
「うん。お疲れ。俺も力になれなくてごめんな。で、いつから行く? 金は俺が出す」
理解不能な話の流れに僕が咄嗟に取った行動は、一旦受け入れて彼が忘れるのを待つという作戦だった。どうせ、行くわけがない。僕が行けるわけがない。
「わかりました」
とテキトーに返事をして、ライブの時間が来たのをいいことに客席へと逃げた。終演後、打ち上げに参加した僕の正面に座った一郎さんは、残念ながらその話を忘れていなかった。終始カトマンズ行きの話を続けた。その時の会話を僕は明確に覚えている。
「お前は東京出身のぼっちゃんだ。大きい成功も大きい失敗も経験していない。つまり、狭い幅でしか生きてこなかったんだ。世界はお前の知らないことで溢れている。未知の場所に飛び出して、いろんな景色と人を見てこい。広い世界をその目で定点観測する必要がある。たくさんの人間と出会い、自分がいかに特別であるか、自分にしかできないことは何か、一人旅で見つけてこい」
聞き流していたはずの僕も少しずつ耳を傾け始めていた。とはいえ、こう返事をした。
「ちょっと考えてみます。でも行くにせよ、自分の金で行きます。そうさせてください」
すると、一郎さんはこう続けた。
「自分の金で旅に出るな。どうせ自分で行くとなったら、お前はアメリカとかヨーロッパとか自分の興味がある場所に行って、好きなことだけするだろう。それじゃ意味がないんだ。人の金で、行きたくないところに飛ばされるべきなんだ。俺の代わりにカトマンズを目指してほしい。2カ月間。どのルートで行ってもいい。旅に出ることも俺が金を出すことも誰にも言わなくていい。勝手に一人で行って、心に記録してこい」
一郎さんは、生き生きとした少年の目をしていた。夏休みに友達と遠出して遊ぶ計画を立てているようだった。
数日後、僕の銀行口座に一郎さんから旅の資金がドンと振り込まれていた。どうやら本当に行くしかないようだ。こうして、僕はお世話になった先輩から背中を押されるどころか、蹴られるような衝撃でもって、大好きな日本を追い出されたのである。バンドを解散したのが、2月22日。感傷に浸る暇もないまま、3月1日。エイプリルフールを待たずして、この嘘みたいな旅嫌いの旅が始まったのだった。

