「逃げ出したくなかったかといったら、嘘になります」
元日本テレビのアナウンサーで、現在はフリーアナウンサーとして活動する町亞聖さん(53)。その名刺には「元ヤングケアラー」と書かれている。18歳の時に母がくも膜下出血で倒れ、重度の障がい者となったことから始まった介護の日々。町さんは母の介護と家事を担い、さらには弟と妹を育てることとなった。
「お前がきょうから母親だ」父の一言で始まった重責
「父が何もやってくれないので。当時中学3年生の弟、小学6年生の妹がいたんですが、父からは『お前がきょうから母親だ』と言われ、弟と妹の学校のことであったり、料理、洗濯、掃除といった家事、それに入院代などで苦しくなった家計のやりくりまで全部私がやらなければいけなくなりました」と町さんは当時を振り返る。
高校3年生だった町さんは、受験勉強どころではなくなった。「結果は全部落ちました。受かる余地もなかったです」。しかし、1年浪人して立教大学に入学。大学時代は奨学金をもらい、アルバイトもしながら、授業が終われば家に帰り、家事をこなした。
「母が障がい者になって、父が飲んだくれで。『どうせ大した人生を送れない』と自暴自棄になって、道を踏み外してもおかしくないわけですよ。でも、だからこそ親は親、私たちは私たちでやっぱり生きていかなきゃいけない。そういう姿を弟と妹には見せないと、と思ってました」と町さんは語る。
大学卒業後、町さんは日本テレビに入社しアナウンサーとなる。
「大学時代に母と一緒に過ごす中で、思ってる以上に障がい者が生きづらいことを知ったんです」と町さん。そこから、障がい者の問題を取り上げたいという思いを持つようになった。
日本テレビの上司からは「母のことを公表するな」と…
しかし、日本テレビの上司からは「母のことを公表するな」と言われた。
「売名行為になるからと言われました。今の人たちには分からないと思うんですけど、その頃は芸能人とかが介護してる話をすると『それで名前を売ろうとしている』と捉えられた時代だったので」と町さんは当時の状況を説明する。
1998年、母が子宮頸がんと診断される。「在宅で看病しながら、私も弟も妹もみんな、いつ母とお別れしてもいいように日々を大切に過ごしていました」。翌年11月、母は自宅で息を引き取った。
「お母さんやっと自由になったね、ですね。不自由がやっぱり多かったので」と町さんは母を看取ったときの心境を振り返る。
「母は最後にふっと父の方を見てニコッと笑って息を引き取ったんですよね。その顔を見た瞬間に、やってあげたかったことはたくさんあったんですけど、結果としていい人生だったのかなって。すごい母だったなって思いました」
現在、町さんは「元ヤングケアラー」として、講演会などで自身の経験を語り、ヤングケアラー問題の解決に向けて活動している。
「子供が何に悩んでいるかを先生が聞き取った上で、必要な支援につなげるということをやってほしい。親が抱えている問題を解決しなければヤングケアラーはそのまま大人のケアラーになります」と町さんは訴えた。
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