吉本興業前会長の大崎洋氏は、晩年の谷川俊太郎さんと少なからずの縁があったといいます。月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」の連載「達人の虎の巻 ~人生を変えた『座右の書』~」から一部紹介します。(取材・構成 稲泉連)
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「少年のような眼」をしていた谷川俊太郎さん
谷川俊太郎さんの『二十億光年の孤独』は大学1年生の頃に古本屋さんで買ったんやけれど、実は「懐かしい」という以上に話したいことがあるんですよ。
昨年、谷川さんは亡くなりましたが、実は晩年のある時期、僕はひょんなことから谷川さんと月に1度くらい「対談」をする間柄になったんです。若い頃に「詩」を読んで感銘を受けた谷川さんと、そんなふうにお話をする機会を得られるなんて夢にも思わんかったし、今でも嘘みたいな話やと思っています。
きっかけは僕が通っていたマッサージ屋さん。マンションの一室でやっているお店で、2年くらい前のあるとき、その店の兄ちゃんから「大﨑さん、谷川さんが会ってみたいと言っていましたよ」と言われてね。要するに、谷川さんと僕は同じマッサージ屋さんの常連同士で、兄ちゃんが僕の話をしたら「吉本興業の社長」ということに興味を持ってもらえたみたいなんや。
でも、僕からすれば谷川さんにお会いするのは、あまりに恐れ多いことやった。それで最初は遠慮させていただいていたんやけれど、何度かお誘いを受けたので失礼に当たるのも嫌やし、しばらくして本当に会うことになったんですよ。
その日はもう緊張して何も喋られへんかった。でも、谷川さんがほんまに詩のように、少年みたいな眼をしていたのが強烈な印象として胸に残っています。その眼を見たとき、「ああ、この人はほんまに『自由』そのものなんや」と感じましたから。
谷川さんとはその後、月に1度くらい顔を合わせるようになりました。「対談」ということでレコーダーも回させてもろうてね。最初はガッチガチに緊張して何を話したらええか分からんかった僕も、そのうちに少しずつ慣れてきて、気が付いたら人生相談をしていました。「吉本をやめて、今はこうこうで……」みたいな感じで。ホンマにアホみたいな質問をしたもんや。ただ、そんな僕に対して谷川さんが、こんな言葉を言ってくれたのを忘れられません。
「大﨑さん、なんでもありですよ」
そう谷川さんにあの眼で言われたとき、吉本を辞めて自分はどうしていこうと迷っていた僕は、なんだか肩の力が抜けていくような気がしたんやね。
谷川さんと対談したのは10回くらい。僕にとっては本当に大きな出会いで、今でもその時間のことをよく思い出します。何しろ谷川さんは、ほんまに詩だけで生きてきた人でしょう。子供みたいな純粋さと自由さをずっと持っておったわけや。そして、歳を取ってもその自由さが、きっと変わらなかった。あの方と話をしていると、自分ももっと自由に生きたいなぁ、もう無理かもしれんけど、少しでも見習いたいなぁ、と思いましたよね。