「親は特に拒否もしなかったです」児童養護施設から実家に戻った驚きの理由

――当時は将来こうなりたいとか夢はあったんでしょうか。

松尾 夢はなかったですね。むしろいい天気の日に車がいっぱい通ってる車道にパッと飛び出して「今ここでリセットできたらいいな」と思っている感じで。毎日そう思っていた時に「でも待てよ。私がもしここで死んだとしても泣いてくれる人は誰もいないんだ」と気付いて。死んでも死に損だから、じゃあ幸せになってやろうって思いました。

――高校卒業後は東京経済大学に入学します。驚いたんですが、施設から出た後にまたご両親のところに戻ったんですね。

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松尾 戻らない人が多いんですが、私は戻りました。親は特に拒否もしなかったですし、その頃には母も入院していて。家庭の環境も落ち着いているという判断のもと、家に帰ることになったんだと思います。私の意思がそこにあったかというと、それはなかったです。

――でも、ちょっと心配になりませんか。施設では一応3食食べられたのに、そこから醤油ご飯を食べていた実家に戻るというのは。

松尾 その時は大学生になっていたので、自分でアルバイトしたりすればいいかなと思ってました。小学生の頃は本当に親に生かしてもらう以外手段がなかったですけど、その時はもうなんとかなる自信もあったので。

 

キャビンアテンダントを目指すようになったきっかけ

――大学時代はどうでしたか。

松尾 大学時代は学費のためにアルバイトに必死でした。大学ではオーケストラ部に所属して、トランペットを続けていたので、週3回のオーケストラ部の練習とアルバイトで、合コンとかに行っている暇はなかったですね。周りの子はいっぱい遊んでましたけど、私にはその暇がなかったです。

――大学生時代にはイベントコンパニオンを始められたそうですね。

松尾 1年生の途中から始めました。時間の融通が利くアルバイトはないかなと探していた時に、友達にイベントコンパニオンの仕事を教えてもらった感じです。

 大学2年で新東京国際空港公団が主催する成田空港のイメージキャラクター「エアポートプリンセス」に合格して、そこから2年間はその仕事をメインでするようになりました。

――「エアポートプリンセス」って何をやるんですか?

松尾 ボジョレ・ヌーヴォー解禁日であったり、空港に関するイベントがあるとテープカットがあるじゃないですか。そういう時にテープカットする人の横に着物を着て立っていたりしました。働き始めると航空会社の人の仕事を間近に見る機会が増えて、キャビンアテンダントになるのもいいかもと思い始めました。

写真=石川啓次/文藝春秋

INFORMATION

松尾 知枝(まつお・ちえ)
1980年生まれ。東京都出身。10歳から8年間、児童養護施設で暮らす。施設出身者の大学進学率がわずか10%という状況ながら大学進学を果たし、大手日系航空会社にCAとして乗務。最新著書「あなたの生きづらさ“昭和な呪い”のせいでした」(小学館)。

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