1万人のご遺体を見送った経験のある元火葬場職員・下駄華緒さん。各種メディアで火葬場の実態を発信し続けている彼が、火葬場の裏側や仕事の実情を描いたコミックエッセイ『最期の火を灯す者 火葬場で働く僕の日常』(竹書房)の第4巻を上梓した。
かつて大震災が起こった際に、火葬場は大きな混乱に陥ったという。なぜ震災時に火葬場の混乱を招いてしまったのか。火葬場は公共インフラとして、どのような役割を果たしているのか。下駄さんに話を聞いた。(全2回の2回目/1回目から続く)
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過去の大震災時は火葬が追いついていなかった
――今回の書籍では、震災時の火葬についても取り上げられていました。下駄さんは、子どもの頃に阪神大震災を経験されたそうですね。
下駄華緒さん(以下、下駄) はい。当時僕は小学3年生でした。地震の大きさには驚きましたが、幸い僕の住んでいたマンションは一部損壊で済んだのです。ヒビが少し入った程度だったから、そのまま自宅に住み続けられました。
でも、友人の中には長い間、家族で学校の体育館に避難している人もいましたね。当時は今ほどプライバシーへの配慮もなく、老若男女関係なく雑魚寝していたと聞いています。また、あまりにも被害が大きかったから、火葬が追いつかずにご遺体と被災者が一緒に過ごすような避難所もあったそうです。
――下駄さんは当時小学3年生だったということは、後になってから当時の話を聞いたり、調べたりしたのでしょうか?
下駄 はい。当時について調べたところ、震災の影響で故障してしまった火葬場もあったそうです。それでも、亡くなった人は通常の何倍もいましたから、24時間体制で火葬しても追いつかない。
これをきっかけに、「災害時には、火葬においても地域を超えて連携しないといけない」、いわゆる「広域火葬計画」の考えが広まっていきました。
でも、それから10数年後に起こった東日本大震災では、広域火葬計画がうまく機能しませんでした。被災地の火葬は追いつかないし、ご遺体を一時保管するためのドライアイスも足りない。そのため、海岸沿いにご遺体を埋め、順番が来たら掘り出して火葬するという対応をとっていました。
東日本大震災後、広域火葬計画への意識が高まった
――その作業に携わった方々の苦労は、相当なものだったでしょうね……。なぜ、そんな事態になってしまったのでしょうか?
下駄 阪神大震災以降に広域火葬計画の考え方が広まったとお話ししましたが、いろんな事情から策定していない自治体が多かったんです。その中には、東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県、宮城県、福島県も入っていました。