ラジウムの夜光塗料は、一晩中変わらず、幻想的な光を発し続けるという。その数奇な運命を辿ったラジウムは、戦争と原爆、福島第一原発へ続く、日本の現代史を照らしたと言えるだろう。
東日本大震災から7ヶ月後の2011年10月、東京都世田谷区の民家で、放射性物質「ラジウム226」が入った瓶が見つかった。
鍵となるのは「日本夜光」という会社名のラベル
世田谷区弦巻の区道で、周辺よりも高い放射線量が検出された。高さ1メートルの地点で、毎時3.35マイクロシーベルトと高い放射線量を検出する。区の調査の結果、最寄りの民家の床下から、木箱に入った数十本の古い瓶が発見された。
当時は、福島第一原発の事故の記憶が生々しい頃だ。マスコミがつめかける騒ぎになり、報道を覚えている人もいるだろう。だが結局、文部科学省が、福島原発の事故とは無関係とすると、急速に関心は薄れていった。
では、あのラジウムは、一体何だったか。
この謎に答える鍵は、一部の瓶に張られた、「日本夜光」という会社名のラベルだ。そして、今から80年前、日本夜光のラジウムを手にした男がいた。戦後の右翼の大物で、裏社会のフィクサーとされた児玉誉士夫である。
なぜ、児玉がラジウムを持っていたのか?
福島出身の児玉は、若い頃に国粋主義運動に入り、天皇直訴事件などを起こした。戦時中は、上海を中心に「児玉機関」を作り、戦争遂行のための物資調達を行う。調達と言えば聞こえはいいが、実際は、現地の中国人からの略奪に近かった。
戦後はA級戦犯となり、GHQ(連合国軍総司令部)に逮捕されたが、1948年のクリスマスイブに釈放された。そして、中国から持ち帰った莫大な資産で、鳩山一郎の自由党結成を支援した。この自由党は、1955年に民主党と合流、今の自由民主党になる。
こうして政界から財界、裏社会まで睨みを利かす存在になるが、なぜ、彼がラジウムを持っていたか。それを知ったのは、機密解除されたGHQの児玉ファイルを読んだ時である。

