藤木によると、1930年代末、海軍の注文で、カナダの鉱山会社エルドラード・ゴールド・マインズから輸入した。仲介したのは、ニューヨークの三菱商事。児玉のラジウムは、入った管の番号から、一部は、自分が渡したものに間違いないという。
つまり、カナダの鉱山会社→日本夜光→日本海軍→児玉誉士夫→GHQというルートで流れていた。
そして、これにはオチがある。当時の日本で、ラジウムは非常に貴重で、ダイヤモンド以上の価値があった。後で、それに気づいたか、児玉がGHQに、「やっぱり返してくれ」と懇願する一幕もあった。
世田谷で見つかったラジウムの正体
では、世田谷で見つかったのは、何だったか。
GHQの記録に、日本夜光の元社員の証言がある。それによると、戦争末期、空襲を恐れた彼らは、ラジウムを持ち出し、いくつかの場所で地面に埋めた。それを後で掘り出し、夜光塗料の実験、または売却して生活費に充てたかったという。
とすれば、弦巻の民家の床下にあったのは、流出した一部の可能性がある。戦後、誰かが日本夜光のラジウムを手にし、何人かの手を経て、そこに置かれたのでは。
そして、話は、ここで終わらない。
ラジウムを売ったカナダのエルドラード社は、間もなく経営が悪化した。第二次世界大戦の勃発で、欧州の市場が閉じられたのも大きい。
ラジウムに替わる有望な商品
だが戦時中、彼らは、ラジウムに替わる有望な商品を見つけ出した。それまで何の価値もないとされた鉱物が、じつは巨大なエネルギーを生むと分かった。ウラニウムである。
当時、米国は、原子爆弾開発の極秘プロジェクト、「マンハッタン計画」を進めた。それには、まず、材料のウランを大量に確保せねばならない。その大半は、アフリカのベルギー領コンゴ産が使われた。そして、同じくウランを供給したのがカナダ、そのエルドラード社だった。