GHQが抱いた、ラジウムの出所に関する疑念

 巣鴨拘置所から釈放されて4日後、1948年12月28日、児玉は、GHQにある申し出を行った。自分の手元に大量のラジウムがある、それを提供するから、日本占領に役立ててほしいという。実際、その後、三つの鉛の箱に入れたラジウム入りの管が渡された。

 だが、ここでGHQは、ある疑念を抱く。ひょっとして、これは戦時中、海外で略奪したものでは。そこで急遽、民間財産管理官に出所を調べさせた。その報告によると、経緯は次のようなものだった。

当時のラジウムの金銭的価値

 日本の無条件降伏から5日後、1945年8月20日、海軍の多田武雄次官が、児玉にある提案をしてきた。児玉への未払い金を、ラジウムの現物支給で埋めたいという。

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「戦争末期、海軍は完全に資金不足で、負債の返済や給料の支払いができず、物資で補っていた。多田によると、海軍は児玉に250万円の債務があり、それを大量のラジウムで払った」

「多田は、その量や価値は知らないが、重量から見て極めて金銭的価値が高かったはずという」

 この児玉に渡ったラジウムの一部が、日本夜光のものだった。

日本夜光とはどんな会社なのか?

 日本夜光は、大正末期の1924年、藤木顕文という人物が京都で作った会社に始まる。夜光塗料の販売を手がけ、1930年代に軍とつながりを深めていく。東京の品川に拠点を移し、ラジウム夜光塗料の国産化に成功した。やがて国内最大の業者に成長し、有能な実業家だったようだ。

 軍と夜光塗料と言っても、ピンとこないかもしれない。だが戦時中、それは戦いを左右する戦略物資だった。航空機や艦船は、敵の目を避け、夜間に隠密行動する。その計器は、ラジウムの夜光塗料が塗られ、それが発する光を頼りにした。それなしに、真珠湾奇襲も不可能だったはずだ。

 だが、ラジウムは、国内で十分確保できず、輸入せざるをえない。当然、GHQは、日本夜光の藤木社長に事情を聞いた。