それが英国発のミュージカル「ミス・サイゴン」日本版(1992~1993年公演)のオーディションである。ヒロインのキム役には、約1万5000人が応募した。実は審査の早い段階から、英国スタッフは「日本版の適任者」として本田に注目していたという。「ひたむきで献身的、愛情にあふれたキムそのものだ」という声もあった。

若かりし頃の本田美奈子さん ©時事通信社

 地声が豊かな本田。課題は裏声を使った高音域の表現だったが、レッスンで注意を受けた箇所は、次には必ず直してきた。「どれだけ練習したことか。できそうでできない偉大なこと」と関係者は振り返る。課題を克服したことで、「アベ・マリア」などを収めたクラシックアルバムの制作へと新しい道も開けた。やはり努力の人である。

「ミス・サイゴン」の中に「命をあげよう」という歌がある。この歌をはじめ、本田は自己犠牲の愛の歌が得意だった。舞台でセットに右足を挟まれ、指4本を骨折しながらこの曲を歌い上げたこともあったという。

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入院中も歌を愛した

 亡くなった翌月の12月16日、夜9時からフジテレビが「天使になった歌姫・本田美奈子.」というドキュメンタリー番組を放送した。病状が回復に向かっていた時期、フジは完全復帰までのドキュメンタリーを制作しようと取材を始めたという。

 彼女が残した約5時間にわたるテープと、家族が撮影した写真から、これまでの歩みと闘病を振り返った番組だった。本田は同じ病院に入院していた知人を元気づけようと、毎日のようにメッセージをテープに吹き込み、最後に歌を贈った。アカペラで歌いあげる「アメイジング・グレイス」。力強くて心のこもった歌声だ。本当に歌うことが大好きだったんだなあ。そのことがひしひしと伝わってくる秀作の番組でもあった。

 東京生まれの本田だが、2歳から埼玉県朝霞市で育っただけに、「ふるさとは埼玉」と言っていいだろう。歌手デビューし、ミュージカルなどで幅広く活躍するようになっても、地元を離れることはなかった。

 朝霞警察署の一日署長を引き受けるなど、地域とのつながりを大切にした。2001年4月の朝日新聞のインタビュー(埼玉県版)でも「土いじりをきっかけにした地域の人たちとのふれあいがたまんない」と屈託なく語っていた。