生前は、舞台でセットに右足を挟まれ、指4本を骨折しながらミュージカルをやりとげたことも…。常に人々に元気を与える存在だった、歌手の本田美奈子さん。そのひたむきな努力で人々を感動させた彼女の人生とは? 朝日新聞編集委員で、昨年10月に亡くなった小泉信一氏の新刊『スターの臨終』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)

いつも人々に元気を与える存在だった、本田美奈子さん ©時事通信社

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本田美奈子は最後まで優しかった

 そういえば、あるとき、こんなこともあった。埼玉県朝霞市の本田の出身小学校で開かれた「しのぶ会」で、マネジャーが入院中の出来事について話した。

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「『また明日ね』と見送られ、外に出たが、携帯電話を忘れているのに気づいて取りに戻ると、背中を見せてわんわん泣いていた。人にやさしく、人を思うことの大切さ。彼女と出会えたことは、とても大切な思い出です」(朝日新聞・2009年3月7日埼玉県版)

 つらい話ばかり続くが、私は「病院」という場所は、病気を治療するだけの場所ではないと思っている。そこは人間と人間が交流する場。人としての温かさ、ぬくもりに接する場ではないか。本田のエピソードをこうしてつづりながら、改めてそう感じている。

ミュージカルでも努力

 1967年7月、東京都で生まれた本田は、1985年に歌手デビューした。4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」で日本レコード大賞新人賞を受賞し、翌年発売した「1986年のマリリン」もヒット。アイドル歌手として不動の地位を築いた。ミニスカートにヘソ出しルックで踊る姿がなつかしい。ひとりでステージに立っても存在感があった。

 時代は60~70年代の高度成長期を経て、日本経済がバブルへとひた走った80年代。アイドル人気も熱かった。特に「花の82年組」と呼ばれた歌手は、世代を超えて高い知名度を誇り、「豊作」だった。中森明菜、小泉今日子、石川秀美、早見優、シブがき隊、堀ちえみ、三田寛子……。私もレコードを買いあさったことを覚えている。アイドルの誰もが、昭和特有のエネルギッシュなパワーを兼ね備えていた。本田はやや遅れてきた世代だが、やがて転機を迎える。