女性をモノのように扱う楼主や社会に反発

もちろん大正期にジェンダー平等、ハラスメント反対といった概念は希薄だっただろうが、遊女たちが闘っていたのは妓楼での不当な扱いだけでなく、女性をモノのように扱う遊廓やそれを許容する社会とも受け取れる。時には競合する相手と助け合い、不条理な共通の敵に立ち向かう。それは朝霞の「パンパン」の女性たちにも見られたが、そんな姿を想像すると、現代の女性の多くも胸が熱くなるのではないだろうか。

一方的な被抑圧者とみられがちな遊女に、生き残りをかけて連帯や抵抗の動きがあったという事実は注目に値する。

光子は純潔を奪われ死のうと考えたが、復讐を決意する

そもそも、光子はなぜ日記を書き始めたのか。初めて客を取る「初見世」を経験した後の日記で、その胸の内を明かしている。

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光子は初見世から1週間苦しみ、死のうと考え何度も遺書を書いたが、死んだとしても、周旋屋や楼主、初見世の相手の男など自分をどん底に突き落とした人々に虐げられたままだと考え、復讐のために日記を書こうと以下のように決意する。

〈もう泣くまい。悲しむまい。(中略)復讐の第一歩として、人知れず日記を書こう。それは今の慰めの唯一であるとともに、また彼等への復讐の宣言である〉

「復讐」ととらえる背景には、体を売ることに対する光子の強い嫌悪感がある。嫌悪感は、日記の随所からうかがえる。初めての相手を「処女の純潔を、鼻紙でも踏みにじるようにして、自己の獣慾を満たしたその男!」「極悪非道の人間」と強い言葉で非難し、日記を書くことによって清らかな心になり、「妾(わたし)は処女になれる」とつづっている。多くの遊女が入院を嫌がることについても、入院を客をとらなくてもいい期間ととらえる光子は「解せない」と吐露している。

吉原を出た光子は結婚、心の傷は癒えたのか?

こうした光子の意識は、貞操観念が強く反映されたものとみられ、当時の娼婦に対する蔑視的な世間の見方も内面化しているように感じる。全国的に盛り上がっていた廃娼運動の影響を受けていたとも言えるだろう。

光子は先述した本を2冊出版した後、結婚したが、晩年の様子はわかっておらず、没年も不明だ。光子が自由を得て遊廓での体験を世間に発表した後、どのように自身の過去や嫌悪感と向き合っていったのか気になるところである。

牧野 宏美(まきの・ひろみ)
毎日新聞記者
2001年、毎日新聞に入社。広島支局、社会部などを経て現在はデジタル編集本部デジタル報道部長。広島支局時代から、原爆被爆者の方たちからの証言など太平洋戦争に関する取材を続けるほか、社会部では事件や裁判の取材にも携わった。毎日新聞取材班としての共著に『SNS暴力 なぜ人は匿名の刃をふるうのか』(2020年、毎日新聞出版)がある。