吉原遊廓(新吉原)は江戸時代から昭和の戦後まで存在していた。その歴史を調べた毎日新聞記者の牧野宏美さんは「大正時代に吉原を脱出し、自由廃業した女性・光子の記録によると、吉原の遊女は彼女たちを人間扱いしない妓楼の経営者に搾取され、生理中でも客を取らされた」という――〈後編〉。
※本稿は牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)の一部を再編集したものです。
性病検査に引っかかり休業することを恐れていた遊女たち
光子の日記には、吉原病院で性病検診や治療を受ける場面も描かれている。性病の拡散を防ぐため、当時は娼婦への性病検診が行われていた。吉原病院は1911年に性病予防を目的として開設され、42年には東京府に移管された。パンパンへの強制検診も多く担っていた場所だ。光子が描く検診の様子はリアルで、当時検診を遊女や店がどうとらえていたかがわかる。
検診で病気や不具合が判明すると入院して治療するため、その間遊女は店に出られず、稼ぐことができなくなる。そのため店側は検診の日は検査にひっかからないために火打石を打つなどして縁起を担ぎ、多くの遊女もなじみ客が離れることや入院生活を恐れ、検査を無事パスすることを願っていたようだ。
遊女たちは吉原病院での検査に行く前に、「外来」と呼ばれる廓内の町医者を訪れ、事前のチェックを受ける。局部を見てもらい、検査にひっかからないよう、おりものなどを取ってもらい、水薬がついた脱脂綿を受け取って病院へ。検査の直前に遊女たちはその脱脂綿で局部を丁寧に「掃除」して、用意されたかめに捨てた。こうした場面は、五社英雄監督による映画『吉原炎上』(1987年公開)でも出てくる。
光子は吉原脱出する直前、梅毒と肺病と心臓病で入院
光子は日記で確認できるだけでも複数回、入院している。中でも遊廓を脱出する年の1月には梅毒と肺病と心臓病で入院した、とある。入院生活は食事はひどく、まったく外に出られないため「地獄か『ろうや』のようなところ」と表現し、2カ月半も入院して退院したところ、その夜から客を取らされたという。